異呆人

ノンフェータルなペシミズム

エンドロール

もう10年以上前から、私は自分の人生が「エンドロール」だと思うようになっている。

物語が終わった後に流れる、余韻を味わうためのもの。

あるいは関係者への感謝を表すもの。

要は、自分が主役の物語が完結を迎えているという感覚。

ここから先は、本でいうならあとがき。

作者の感慨が滲み出たり、後日談が語られるような場所。

そんな感じ。

 

それは八方塞がりで「終わり」だという意味ではない。

いわゆる「詰んでいる」という感覚とは違う。

例えば、それが映画であれば、物語の終わりというのは往々にして主人公の人生の終わりではない。

オーディエンスが見ている部分として一区切りというだけである。

仮にそれがフィクションでないのなら、物語が終わっても主人公の人生は続いていくはずである。

それは見ていて面白いものではないかもしれないが、終わらない限り(死なない限り)続くのである。

 

その感覚は、生き続けるほどに正しいと感じている。

私は人間的に成長していない。

生きるほどに経験やスキルは身につくが、それは私にとってオプションパーツみたいなものである。

私のコアの変化ではない。

状況に応じて使い分けられるようなものは、状況によっては役に立たないものである。

いついかなるときも揺るがない、自分自身を築き上げたいと思ってきた。

しかしあらためて考えると、そういう「揺るぎない自分」というのは、もう出来上がっているのではないかと思える。

いわば、レベル99。

 

それが退屈という感覚につながっている。

あるいは欠乏感。

しかし、それはそういう形として完成してしまっているということなのかもしれない。

失敗作の完成形。

最近はあまり使わなくなったけど、昔はよく感じていた表現。

ここからは面白いことは起こらないかもしれないけど、1つのエンディングを迎えた物語の在り方としては十分。

正規ルートのハッピーエンドだけが物語の終わりではない。

やれる範囲のことはやった。

その結果が今だというなら、それは甘んじて受けれるべきである。

 

物語が進まない身としては、ここから先はあってもなくても同じである。

だから、自分の持つ時間や資産などのリソースは、まだこれから物語を紡いでいく人の糧になればいい。

そのリソースを提供する相手が妻であり、子であり、友人であり、関係する人たちである。

まだこれから自分たちの幸せの形を求める人が、私を上手に使ってくれたらいい。

私は幸せという形に縛られないところまでは来た。

今度はオーディエンスとして、それぞれの物語を見せてもらえれば十分である。