異呆人

ノンフェータルなペシミズム

そうまでして生きていたいか

生きるべきか死ぬべきか

ハムレットではないが、若い頃はずいぶん考え込んでいた。

自縄自縛と言われるほど、考えすぎて身動きが取れなくなっていたようなものだが、それはやはり私にとってスルーできる問題ではなかった。

言うほどの何かがあったわけではない。

死にたい理由があれば簡単である。

死ねばいい。

したいなら、そうすればいい。

(それが解消不可能な理由であり、本人が望むなら、今でも本気でそう思っている)

しかし、生きていたくない、あるいは生きる価値・意味が見出せないというのは、「=死」が回答にならないから厄介である。

まさに「生きるべきか死ぬべきか」、どちらが正解なのか悩むことになる。

緩やかになんとなく「死にたい」と願い続けることになる。

 

10年以上前から、「生きていたくない≒死にたい」という感覚は随分弱くなっている。

ずっと緩やかに続いてはいるが、「死に直面するような何かがあっても、あえて生きるという側を選びたくない」という程度のものである。

生きるのはめんどくさいし、意味や価値はないと思っている。

それでも、「生きる」ということそのものは、自然現象だというのが私の解釈である。

日が登ったり、雨が降ったり、川が高いところから低いところへ流れるように、生物というのは生まれ落ちたら生きようとするのが自然である。

自ら死を選ぶということは、心身の状態や置かれた状況が自然(健全でも正常でもなんでもいいが)ではないということである。

人間は自分の意思で心臓の筋肉を止めることはできない。

それが何よりの証左だと思っている。

 

ただ生きていくことは簡単である。

人間はそう簡単には死なない。

数日飯を食わなかったくらいでは死なないし、ホームレスになって橋の下で生活しても死なないし、手首を切ったり、睡眠薬を多量に飲んだくらいでは簡単に死なない。

電車や車の前に飛び出したり、高所から身を投げる方が、生きていくより、よほど強い決心がいる。

むしろそれだけ強い決心のできる状況に置かれた人間に、無闇に「生きろ」という方が無責任である。

生きていれば辛いことはたくさんある。

間違いなく、楽しいことや嬉しいことより、辛いことの方が多い。

ただしそれは、生きることそのものの難しさとは無関係である。

例えば、罪を犯して刑務所に服役していれば、最低限の衣食住は確保される。

 

にもかかわらず、少なくない人間が「生きること」そのものに疑問や迷いを持つのは、単に「そうまでして生きていたいか」と考えるからである。

辛いことを乗り越え、あるいは耐えてまで、人生というものは生きるに値するのか。

そういう計算が働くから、生きることの価値や意味を考えようとする。

足し合わせてマイナスになるくらいなら、最初から生きていなくていいのではないか、と考える。

考え方によっては、生きていること以上のものを求める贅沢な思考だとも言える。

それは、そのように考えるのが悪いということではない。

そう考えられるだけ人類が進歩している、社会全体が進歩している、ということである。

将来を占い、あるいは自分の境遇を悲観して、損得計算が働く余裕があるということは、余暇の副作用みたいなものである。

そういう思考そのものが、人類の進歩とともに生まれた自然なものである。

 

何が言いたいって、悩むなと言うわけではないし(悩まないのが一番ではあるが)、悩みがいつか消えるとか乗り越えられると言うわけでもなく、そうやって悩みながら生きていくのが自然な姿であるということである。

「そうまでして生きていたいか」と言われれば、そんなこともないだろうが、「じゃあ死にますか」と言われて素直に「はい」と言える人もそう多くないだろう。

それだけの決意があるなら死ねばいい。

大丈夫、人間の命は世間一般で言われているほど重くはない。

私が明日死んでいたって、何人か悲しむ人や困る人がいる程度で、世の中の活動が急に滞るわけではない。

生きる意味や価値が欲しいなら、自分で探せばいい。

自分なりに考えている人はたくさんいる。

究極の答えを前に、個人の嗜好が無意味になるわけではない。

世界は実際の世界と個人の世界があるのだから、見つけた答えはいつだって個人の世界では有効である。

 

ほんと、生きてるのって、めんどくさいねぇ。

時間があるほど、無駄なことばかり考える。