異呆人

ノンフェータルなペシミズム

丸くなりましたね

以前の私を知る人からは「丸くなりましたね」とよく言われる。

就職してから丸くなった、あるいは結婚してから丸くなった。

間違いないとは思う。

このブログのしょうもない記事を見たらわかる通り、私は今でも世間の多くの人よりは尖っているとは思うが、昔言われたような日本刀や剃刀のようなキレはなく、机の角程度に尖っているだけである。

触れれば切れるというより、当たったら危ないよ、くらいのもの。

だからそう言われると、嬉しくない。

鈍くなったと言われているようなものである。

もちろん、言ってる側にそんなつもりはないだろうが。

丸くなったことは自分でも認めるところではあるが、嬉しくはない。

いや、自分で認めるところだからこそ、嬉しくないと言うべきか。

 

高校生の頃は授業の大半は寝ていたし、打ち込んでいた部活動以外では友人もいなかったし、教師たちと衝突したり、呆れられたり、変に認められたりしていたし、誰がどこからどう見ても「普通」ではなかった。

大学生の頃は興味のない授業はあまりなかった(というか取らなかった)ので、授業は教室の最前列で真面目に聞いていたが、ジャージに下駄で大学に通っていたし、そのまま生活圏内のスーパーなどに出入りしていたし、飲み会などは99%断っていたので、変人のレッテルを貼られていた。

そんな状態を知っている人間からすれば、スーツ着て真面目に会社に通勤していること自体が信じられないらしい。

「丸くなった」と言われるのも、無理からぬことだとは思う。

 

大学生の頃などは、「常識を打ち壊す」ことを1つのポリシーのようにしていた。

ただ「常識がない」のとは違う。

知っている上で崩す。

空気が読めないのではなく、あえて空気を読まない。

ただ退屈だった。

そうしたからといって面白くなったわけでもなかったが、少なくとも今あるものに満足できなかった。

それを壊して、何かを新しく作ろうとしない限り、自分が生きている価値を見出せるだけの何かは生まれないと思っていた。

 

「丸くなった」ということは、妥協するようになったということである。

あえて既存のものに挑みかかり、それを崩しにかかるということは、当然ながら楽なことではない。

決められたことに従っていれば、波風は立たないし、八方丸く収まることも多い。

いわば自分から「ハードモード」に難易度を上げるようなものだが、そうしても結局、私の欲しいものは手に入らなかった。

何が欲しかったかはわからない。

手に入ったものが期待したものと違った、というだけである。

 

だから今は楽をしているのである。

妥協していろんなものを受け入れ、「協調」と言われる美学に少しでも順ずるようにする。

「他者を受け入れる」とか、そういう言い方でもいい。

過去の私からすれば、どんな言い方をしようと敗北宣言のようなものである。

「丸くなる」ことが技術的に難しいわけではない、心理的に難しかったのである。

「面白くない」ことに甘んじる。

それが昔の自分には許せなかった。

よく「何か面白いことないかな〜」と言っている人を見かけるのだが、それは怠慢である。

「面白いこと」は降って湧いてこない。

高杉晋作ではないが、面白くするには自分からアクションを起こさないといけない。

 

ということで、退屈。

順調すぎて。

見える未来に興味はない。

それがわかっていて、そういう方向に人生の舵を切ったのだが、思っていたよりも退屈。

子供の成長が唯一の楽しみ。

彼が私の予想や期待を超えてくれたら嬉しい。

未知の可能性を1つでも生み出せたということだけで、退屈を甘受するだけの価値はあると思うけれど。