異呆人

ノンフェータルなペシミズム

いまひとたびの孤独を

この週末、関東は晴天が続いている。

3月に入ってから、暖かったり、寒かったり、雨が降ったり、時折みぞれに変わったりするいかにも春の始まりらしい天気だったが、文字通り春分を境に本格的な春がやってきた趣がある。

晴天が好きだ。

多くの人がそうであるように。

それは単に気持ち良いからとか、気圧が低いと体調が悪いとか、雨だったら傘をさすのが面倒だし濡れるのが嫌だとか、そういうことでもあるのだが、抜けるような青空の開放感が好きだということが一番大きい。

そこにあるのは「快」という感覚だけではない。

私はむしろ寂寥感にも似たような感覚を得る。

開放的であること、解放的であることは、現実のしがらみから離れて究極に自由であると錯覚させてくれる。

それこそ、雲ひとつない青空に吸い込まれて、自分の存在そのものがなくなっていくのではないかという感覚。

あるいは、そういう希望。

そういうものが単なる「快」ではない、不思議な気持ちにさせてくれる。

 

「孤独感」に近いかもしれない。

あらゆるものから独立して自分が「個」であるという認識と、「個」であるが故の不安定さ。

解き放たれるということは、そういうことである。

このブログでは重ねて書いているが、「孤独」と「孤立」は違う。

物理的にコミュニケーションから隔絶されている状態が「孤立」なら、「孤独」は存在の独立性そのものである。

もし、誰かとコミュニケーションをとることで解消される感覚なら、それは「孤立」からくる「寂しさ」である。

単なる承認欲求の不満足とも言える。

「孤独」とはむしろ、多くの先人が語るように、集団の中でこそ、対話においてこそ感じられるものである。

「私」と「あなた」の違い。

たとえ、どれほど共通点の多い相手だろうと、共感できる境遇にある相手だろうと、長く暮らしを共にして阿吽の呼吸にある相手だろうと、決して「同じ」にはなり得ないという認識。

その認識をもって「寂しさ」を感じることもあるだろうが、それは本質ではない。

だから「孤独」は他者とのコミュニケーションでは解消され得ない、一生そばに置いておかざるを得ないものである。

 

もしかしたら、この「孤独」の認識が今の世の中には足りないのかもしれない。

他者への不寛容、異なるものへの拒絶が蔓延っているように感じられる。

「孤独」は自分とそれ以外を明確に区別させる。

自分と他人が違うものだという認識をスタートとする。

それは、国が違うとか、性別が違うとか、宗教が違うとか、そんな属性による違いではない。

もっと根源的な存在の独立性である。

親子だろうと、兄弟だろうと、夫婦だろうと、まったく違う人間であるという前提に立つということである。

違っているのが当然だと認識できるなら、多少の好き嫌いこそあれ、その違いは受け入れられるはずである。

少なくとも、属性が異なる程度は大したことではない。

 

気持ちのすれ違いや認識の相違で大騒ぎしたり、「なぜわかってくれないのか」と共感を強要したりするのも、存在の「孤独」を適切に認識できていないことが一因だと思う。

お互い違う人間なのだから、意思が100%漏らさず伝わるなどということはあり得ない。

むしろ認識の違いがあるかもしれない、すれ違いが起こり得るものだということを前提に行うのがコミュニケーションであろう。

違うものを擦り合わせて近づけていく。

そのために可能な限り言葉を尽くす。

もちろん、それですべての溝が埋まるわけではないが、そういう真摯な姿勢があれば、埋まり切らない溝だって少しは浅くなるものである。

 

家庭を持った今も、私は孤独である。

孤独であるがゆえに多くを許容するし、許容できないものはときに妥協を求める。

子どもにもそう接する。

彼には彼の世界があり、その見え方は、たとえ同じものを見ていたとしても私と異なるはずである。

共有できない何かがある。

互いに孤独である。

いつかそのことに、彼自身が気づくときもくるかもしれない。

そうならなかったらならなかったで、それもまた私と彼との違いである。

 

それにしても、晴れた日はいい。

思索を肴に、少し早い酒でも飲むかな。