異呆人

ノンフェータルなペシミズム

再考する

先日、書き上げた記事を誤操作で消してしまった。
それなりに長く書いたし、それなりにまとまった内容にもなったと思ったので、消してしまった直後は呆然としてしまったが、しばらくしてジワジワと納得感のようなものが湧いてきた。
どこかに書いてあると思うが、私にとって書くということは、行為そのものがカタルシスになる。
そのことを思い出さされた。
ということで、時間のあるときは書く。
消した記事とはまったく別の内容だけど。

仕事の打ち合わせで、久しぶりにエキサイトしてしまった。
詳細は面倒なので書かないが、承服できない部分があった。
黙っておいてなあなあにしてしまっても良かったのかもしれないが、どうにもそういう性分なのである。
それについては諦めている。
冷静であるとか、落ち着いているという私への評価は間違っていないし、自認するところでもあるが、元々の私は曲がったことの許せない正義感溢れる人間である。
何が正しいかは、さておき。
冷静さとか、批評家然とした態度というのは後付けで身につけたものであり、今の私に占める表面積は大きいし、限りなく本質に近いものとなっているが、オリジナルではない。
だから、そういうオリジナルな自分が顔を覗かせたとき、無理やり押さえつけることもできるのだが、最近はコントロールを手放すことにしている。
ストレスを抱え込む方が面倒なのだ。
「一時的に許可する。好きにやれ」と、自分に指示する。

またストレスフルな状態になってきている。
しばらく前と同じく、仕事が忙しすぎるためである。
加えて、最近妻と子供が体調を崩している。
昨年末に私自身が体調を崩したのもうつされたことが原因だったのだが、結局仕事を休みもしなかった回復速度の異常に早い私と違い、妻と子供は未だにすっきりせず長引いている。
妻が体調不良であると、子供の面倒が十分に見れないため、定時で帰社するよう努力する。
その分、業務に皺寄せがくる。
業務に皺寄せがくると、ついには定時上がりもできなくなる。
そうすると、体調不良なのに放置される妻の精神状態が悪化する。
悪循環。
風邪程度なので身体は心配するほどではないのだが、うつ病歴があるので精神状態には常に注意を払っている。
とは言え、私の力でどうにかなる域を超えてしまっている。
板挟みになってストレスになる。

そういう状況もあってか、釈然としない感じが胸中に渦巻いている。
しばらく気にする暇もなかった、穴の空いたような感覚。
怒りにも似ているし、渇望にも似ている、ずっと消えない感覚。
妻と子供のために自分のリソースを捧げると決め、実際そう行動してきているし、それについて後悔は微塵もないのだが、それでもやはりこれは消えないのか。
何をどうしたらいいかわからない。
自分が何を求めているかすらわからない。
穴の空いた感覚。
違和感。
埋め方がわからないことに対する焦燥。
適当な言葉が見当たらない。
若い頃は掻き毟るような思いで抱えていたが、ある程度飼い慣らした今はそれをただまんじり眺めることになる。
さて、どうしたものか、と。

飽くほど考えてきたことではあるが、私は幸せになりたいと思っていない。
というより、「幸せになる」という表現が不適切だと思っている。
私にとって「幸せ」は、湧いては消える感情である。
維持できる状態(ステータス)ではない。
脳内麻薬みたいなものである。
だから追い求めるべきものではない。
生きていればそういう感情を抱くこともあるだろうし、長く感じられない時期もあるだろう。
そういうものである。
その代わりの指針として、私は「自分の正しさに生き、自分の正しさに死ぬ」ことを心の内に掲げている。
これも状態ではない。
行動(アクション)であり、定期的に回顧して自省するものである。
これは存外難しい。
きちんと自分の中で納得して整理をつけられているならいいが、ともすれば、ただずるずると他人や環境に引き摺られて生きてしまう。
それは後悔に繋がる。
だから私は、自分自身に胸を張れる選択をしているか己に問う。

ただ、そうやって納得できる生き方を心がけていても、空いた穴は塞がらない。
若かった頃のいくつかの大きな失敗の後は、概ね後悔なく過ごせているはずである。
何が足りないか、わからない。
やりたいこともない。
だから、自分だけのために自分のリソースを使うことをやめることにした。
諦めたとも言える。
どうあっても塞げない穴なら、そこに費やすリソースは他の誰かの満足に変わった方がいい。
そういう判断で結婚相手を探すことにした。
あわよくば、自分の人生に対して他者に積極的に干渉してもらうことで、空いた穴が塞がる、自分自身が変わることも期待した。
結果として、自分のリソースすべてを捧げてもいいと思えたのが妻である。
これまでの結婚生活において、この決断を後悔したことはない。
もしずっと一人だったらと考えることはあるし、可能性としてそちらの方が自分に向いていたかもしれないと思うこともあるが、それはトレードオフのないものねだりだと思っている。
子供も可愛いし、大きな不満はない。
ただ、理解や納得感と満足感と、この感覚は別物だということなのだろう。
私自身が家族の影響により変化するということも観察されていない。
残念だが、仕方ない。

ここまでは、もう何年も考えてきたことの繰り返し、その延長線上である。
なぞるように再考する。
変われていない。
変われるような感覚が湧いてこない。
理屈としての正しさなら星の数だけあるだろうが、それが自分のものとして実感を伴って許容されなければならないのだろう。
もしくは主体的に変化を志すほど魅力的な理屈があれば、変化への努力がモチベートされるだろうか。
とりあえずは、ただ生きる。