異呆人

ノンフェータルなペシミズム

考えなくなる

風邪を引いた。

妻と子どもが先に風邪を引いていて、私だけは大丈夫だったので、安心というか過信していた。

元来、身体は丈夫な方である。

体調を崩しにくいことについては、根拠のない自信を持ち続けている。

ところが、妻と子どもの風邪が快方に向かっているくらいの日に、仕事中に急に悪寒がし始めた。

朝から少し喉が痛いかなと思っていたので、風邪だなとわかった。

発熱しているのもわかる。

体温計など使わなくとも、38度近い体温になっているだろうと思った。

普通に残業までこなして家に帰り、体温を計ってみると案の定、37.8度。

どうりでしんどいはずである。

 

妻も子どもも発熱までには至らない軽い症状だったのに、私だけが筋肉痛が起きるほどの発熱だった。

免疫が弱っているのかなと思う。

ときどき、リンパが腫れているのを感じる。

ここ最近の一番の身体の悩みは口内炎だったりする。

治っては、またでき、治っては、またでき、を繰り返している。

食べることが辛いというのはなかなかの苦痛である。

それが繰り返すのだから、あまり良い気はしない。

やれビタミンが足りないのだとか、ストレスだとか言われるのだが、言ったってどうにもならない。

さほど偏った食事をしているわけではないから、わざわざビタミン剤を買うのももったいない気がするし、ストレスに至っては概ね仕事絡みなのだから避けようがない。

そもそも気に病むほどのストレスは感じていないし、いわば多くの人が他人と接する中で感じるそれと同程度のものだろうと思っている。

 

仕事の中身が変わり、社内や社外の人と折衝する機会が増えた。

元々、営業職だったので、他人と接する機会はもちろん多かったのだが、接する相手は「顧客」という属性ばかりだったので、接し方は基本的に一様だった。

それが社内の他部署の人だったり、業務委託先の企業の人だったり、こちらが顧客である取引先の人だったりと、今は多様になっている。

そういう意味では考える内容や接し方などは複雑になったりしているのだが、それでも仕事として適切な答えを探すために思考しているということには変わりない。

いかに効率的に適切な回答を導き出すか、その繰り返し。

それが仕事といえば、それまでで、その通りである。

 

ただ、そういった仕事としての思考は、いわば妥当な解をいかに早く見つけるかということであり、つまり経験という引き出しが多く、かつ整理されていれば、ほとんど「思考」という過程を経ずに処理することができる。

いきなり難しい課題をいくつも抱え込むことになったとはいえ、私も経験や知識がまったくないわけではない。

取り得る選択肢は限られているし、限られた中で何が最善かを検討するだけである。

意外と、思考の過程は短い。

何が言いたいかというと、いかに仕事の中身が難しくなったとしても、さほど考えてはいないということである。

確かに頭を使う仕事をしているのだが、作業のような思考がほとんどで、考えていないに等しい。

 

そう、考えなくなっている。

自分の中の引き出しで、持てる知識や経験で対処するということは、そういうことなのである。

考える時間が省略されるから処理が早い。

そこが玄人と素人の違いでもあるのだが。

自分の中のアリモノで対応してしまっている、できているうちは、思考しない、成長しないのである。

まったく新しいことに取り組み、それに関する思考回路を一から組み上げるようなことをしなければ、考えるという時間がどんどん少なくなってしまう。

 

最近、インプットの量ほどアウトプットしていないのに、フラストレーションが少ないと感じている。

元々、このブログを始めたきっかけもそうだった。

日々多様な情報に接し、いろいろ思うこともあるのに吐き出す先がない。

だから文章にして整理し、そこにカタルシスを求めたのだ。

インプットする量は以前とさほど変わっていない。

それなのにアウトプットする量が減っている。

それは接した情報が私にとってただの記号、部品、材料でしかなく、自分の血肉となるようなものでないからである。

思わず考えさせられるようなことに触れていない。

だからアウトプットせずとも、触れた情報は整理して引き出しにしまっておけばいいとなってしまう。

歳を取るほどに真新しいことに触れることは少ないから、仕方ないと言ってしまえばそれまでだろうが。

 

もっと本を読まないといけないかな、と思う。

世の中に溢れている情報の多くは、軽くて薄い。

吹けば飛びそうなくらい。

「ああ、そうなのね」と相槌を打てば終わってしまうような。

人生というものについは散々向き合ってきたのだが、改めて今、もう一度考えてみるのも悪くないかなと思う。

ただ、現実はそれよりもっと質量を持って目の前に存在しているから、変に現実と異なる解答、それを否定するような解答に至ろうものなら煩悶してしまわないかということが心配だったりする。

そう考えると、あえて私はあえて考えることを避けているのかもしれない。

まぁ、そもそも時間がないということもある。

 

しかしよく考えると、私は考えないくらいがちょうどいいのだった気がする。

考えると面倒になる。

生きているのも何もかも。

目の前の現実という質量を抱えながら、ずぶりずぶりと沈んでいかないといけない。

どこかに飛んでいかないように。

だから考えるより手を動かす。

そうやって、薄っぺらくなる方が生きやすいというのも妙な気がしないでもないが。