異呆人

ノンフェータルなペシミズム

ターミネーターとドラッグとストレス耐性

会社の先輩の送別会があった。

先輩と言ってもグループ会社からの出向社員で、送別会と言っても元いた会社に帰るだけである。
任期なんてないのだが通常よりは長くいた人だと思うし、それだけ出向先のうちの会社への貢献度も高い人だった。
私とは馬が合わないというか、営業という仕事に対するポリシーが違う人で、仲が悪いという訳ではないが、さほど関わりの深い人ではない。
それでも余人をもって代えがたい仕事をしてくれた人であり、リスペクトはしている。
 
さほど飲んだわけではなかったが、その日の帰り道、電車の中で寝過ごして3駅ほど乗り過ごしてしまった。
終電だったので引き返すことはできない。
飲んで帰る日は今いる義実家でなくアパートに帰ることにしているので、その駅のネットカフェなどで寝て帰っても良かった。
どうするか思案しながら夜の街をふらつく。
喧騒の静まりかけた街で寒気にさらされていると、ふと「歩いて帰る」という案が思い浮かんだ。
常識的に考えると歩けない距離だが、Googleマップで調べると3時間半と表示された。
近頃、運動不足でもある。
これくらいはトレーニングを兼ねた酔い覚ましの荒療治としていいかもしれない、などと考えて歩き始めた。
スーツに革靴だったので楽ではなかったし、ちょうど鞄の重たい日だったので肩も凝ったが、なんとかギブアップすることなく帰宅できた。
 
そんな話を周囲にすると呆れられた。
確かに授乳の補助などで3,4時間しか寝てないし、往復5時間の長距離通勤期間中だし、仕事も12時間くらいはしているわけで、そんな状況でやることではないと言われれば否定のしようもない。
それでもできると思うからするわけで、そして実際できているわけで、無理ではないわけである。
他人からも言われるが、自分でもタフだと思う。
身体的なタフさと精神的なタフさから「ターミネーター」と称されることもある。
見た目が針金細工のような痩身なので脆そうに見られることが多いが、平均よりはずっと強靭で、むしろ非常時や追い込まれたときの方が力が出たりする。
 
ただ身体的、あるいは精神的な負荷に耐えられるということは、負荷を感じないということではない。
私だって、しんどいものはどうひっくり返ったってしんどい。
100のキャパシティがある人が50の負荷を受けている状況と、50のキャパシティがある人が50の負荷を受けている状況では、明らかに後者の人間の方が辛さを感じるわけだが、かかっている負荷は同じ50である。
辛く感じてしまう人ほどそれが表出されるので社会的にはフォーカスされるが、実は何食わぬ顔で普通に生きている人の方が、ずっと大変な目に遭っているということはあるのではないだろうか。
健康で社会的にも成功している人の方がずっと、負荷がかかっているということもあるかもしれない。
いや、もちろん所詮は世界なんて自分がどう感じるかの重なり合いで出来ているのであって、社会的に救済されるべきは負荷の大きな人ではなく、負荷が大きいと感じる人でいいと思う。
その負荷が健康状態や社会的状況に表れている人でいい。
でも、そうでない人だって何も楽々と生きているわけではない。
いや、そんなことは各人が自分の苦悩を思い起こせば明白なのだろうが、意外と忘れられていることのような気がする。
 
あるいは普段私たちは身体的状態や社会的状況などの目に見えるもので人の苦悩を評価しがちだし、言う言わないは別として言葉で簡単に説明できてしまうようなものしか理解し得ない。
しかし、そうでないものもあるということを頭の隅に留めておいてもいいのではないだろうか。
そういうものは結局説明し得なかったり、共感を得られなかったりするのだろうから誰も手を差し伸べようがないもので、だからこそ苦悩というものは究極的には自分だけのものだと思うのである。
テレビやネットのニュースでは毎日のように、深刻だったり、馬鹿らしかったり、許せないと感じる犯罪や、それに類する情報が流れている。
だが私たちは罪を犯す彼ら彼女らの何を知っているだろうか。
罪は罪だし、法を犯したなら裁かれるべきだし、非難されるのも致し方ないのだが、テレビなどで訳知り顔でコメントする何とかいう肩書きのついた人たちを見ると甚だしい違和感を感じる。
そういうものに和してみんなで袋叩きにすることが、民主的ということなのだろうか。
犯罪者の苦悩など、外から見れば稚拙で簡単に解決できるようなものが多いのかもしれないが、それを本人がどう受け止めているのかはわかりようがないのである。
それは「なぜ過労死するまで働くのか」、「なぜこの程度のことがセクハラ認定されるのか」といった思考にも通じているような気がする。
 
もうしばらく前になるが、高校時代の部活仲間が覚醒剤の使用で捕まっていた。
それをネットのニュースで知った。
同姓同名の可能性が非常に少ない名前だったし、住所として掲載されていた地域も概ね彼の居住地だったので間違いないだろう。
高校時代から相当変わった奴だった。
書き言葉みたいな話し方をする奴で、皮肉屋だが良くも悪くも自分の考え方が確固としている奴だった。
各人が1年間の活動を振り返る部活動の冊子の自分のページに、ただロシア国家だけを掲載するような奴だった。
軍事に詳しく、なぜか私は彼からどこぞの国の戦闘ヘリの名前をあだ名として付けられていた。
あまり積極的にお近づきになりたいとは思われないタイプだが、なぜか私はそういう人間から興味を持たれるタイプで、折々に話をしていた記憶はある。
「卒業したらどうする?」
「どうするって?」
「どこの大学に行く?」
「沖縄」
「なぜだ?」
「あったかいから」
「理解できんな」
「お前に言われたくない」
最後に交わした言葉はそんなだったか。
 
そんな彼は、2年だか3年だか浪人して、日本でも指折り数えるほど優秀な大学の医学部に入学していた。
確か、親も医者だったか。
優秀ではあったが天才型ではなく、血反吐を吐くような努力を惜しまない奴だった。
そしてそれをおくびにも出さない奴だった。
捕まったときは、医者として勤務し始めたばかりだったはずである。
何を考えていたのか知らない。
もともと考えていることなど分からないような奴だったわけだし。
でも私が出会った頃からきっと、彼には私なんぞには理解し得ない苦悩を抱えていたのだと思うし、それがたまたま社会的には違法な形で発露されたのだと思う。
それはそういう形で解決されるべきものではないし、社会的非難を浴びるのに十分なことである。
私がどうしてあげられたとも思わないし、どうしたかったというのもない。
ただ、わかったような顔で言葉を投げかけられないなとは思う。
 
よく知らないのだが、ピエールなんとかさんがコカインの使用で逮捕されて、世の中は騒然としていた。
ピエールさんが、何が原因で何を思って違法行為に及んだのかは知らない。
深い苦悩を抱えていたのかもしれないし、ただのストレス発散、娯楽のようなものだったのかもしれない。
原因だって、多くの人からすれば自分のキャパシティに収まるようなこと、「なんでそんなことで」と思うようなことなのかもしれない。
そしてそれはそのような行為で解決しようとすべきでないし、社会的影響力を考えれば非難が大きくなるのも然りである。
それでもこの騒動を見ていて、私は違和感を禁じ得ない。
許せとか、受け入れろと言っているわけではない。
法を犯したからといって、好き放題言うのもいかがなものだろうかと思うだけである。
 
ちなみに大麻など、いわゆる「ドラッグ」の一部が合法的に提供されている国はいくつもある。
いや、だからといって「ドラッグなんて大したことないでしょ」と言いたいわけではない。
ドラッグの何が問題なのか、その問題を解決するためにどのような方法があるのかは、もっといろんな形で議論されてもいいのではないかと思う。