異呆人

ノンフェータルなペシミズム

死んだ魚の眼と「やってますよ」アピール

普段から気怠そうだとか、やる気なさそうだとか言われる。

仕事をしているときもそんな調子なので、「お前が損をするからもう少し仕事をしてるというアピールをしろ」と言われることがある。

私はそういうアピールが苦手というか、あまり好きでない。

賃金的なことを言えば評価されるに越したことはないし、そういう指摘が概ね正しいことは理解している。

ただ、そういうアピールをしようがしまいが、私のやったことが誰かに認知されようがされまいが、基本的にそれがもとで私が生み出した成果の価値が変わるわけではない。

いわば付加価値を生まない無駄な作業である。

端的に言えば、そういう無駄なことをすることが私の美学に反する。

所詮は格好の問題であるのだが。

 

そもそも、気怠かったり、やる気がなかったりするのは事実である。

生きてることそのものが怠いと言えばそうだし、娯楽以外の大抵のことには概ね前向きになれないのだから、「やる気なさそう」ではなく実際にやる気がないのである。

「死んだ魚の眼をしている」と言われたことも一度や二度ではないが、否定するつもりはない。

「イキイキとしている」というフレーズが似合わないことは請け合いである。

もちろん、やるべきことはやっている。

ただ「やっている感」を出さないので、そこが損をしているということらしい。

だが、本当に頑張って取り組まないといけないことなら「やっている感」も出るだろうが、苦もなくできることに「やっている感」を出すのもバカらしい。

 

そういう意味では、日々の生活に充実感を感じられる人というのが羨ましかったりもする。

「やらないといけないからやっている」より「やりたいことをやっている」方がいいのは当然だろう。

あるいは「やらないといけないからやっている」ことにも、前向きな意味を見出せる方がいいに決まっている。

そういう意味で「損をしている」というなら、その通りかもしれない。

まぁ私みたいに後ろ向きに出来上がってしまっている人間には、なろうと思ってなれるものでもないが。

 

人は変わろうと思えば変われると思うが、変わることは簡単ではない。

一度出来上がってしまった人間を土台から作り直すことは、非常に骨の折れる作業であり時間もかかる。

10代とか20代の頃ならともかく、30代くらいになってくると難しい。

それはその人自身が変われるかどうかという問題だけでなく、その人が変わることによって築いてきた周囲との関係も変わってしまうという問題があるからである。

それらをすべてひっくるめて、変わることによって起こる結果を引き受けるということは、並大抵の覚悟ではできないことだと思う。

私は何かの外的要因によって自分が揺り動かされて変わってしまうことはそこはかとなく期待しているが、自分からその変動を起こそうというだけの覚悟はもうない。

惰性で残りの人生を生きてしまった方が間違いなく楽である。

 

私は自分から変わろうと思って変われた結果としての自分を、「失敗作の完成形」だと思っている。

世の中で良しとされる方向から大きく逸れてしまったとしても、突き詰めて突き進んでいけばハイエンドになる。

実際、私はこの10年ほどは自分の人間的な成長を実感できていない。

いろいろな環境に身を置いてみたが、期待するような心動かされる何某かには出会えていない。

それは今後もそういったことがないということを意味するわけではないが、そうしている間も時間は進むし、選択を求められ関係性を築き続けるし、そして身動きが取れなくなっていくものなのである。