異呆人

ノンフェータルなペシミズム

敵わない、叶わない

生まれて初めて、なりたいと思った職業は何だろうか。

ウルトラマンとか、戦隊モノのレッドだとか、そんな架空の存在は別として。

私はベタにプロ野球選手だった。

周りの大人に野球好きが多かったこともあるし、私自身が小学生の頃は子供会のソフトボールチームに所属していたからでもある。

Jリーグの発足が、私が小学生の時分だったこともあり、一時期はプロサッカー選手だったこともある。

ミーハーなわけではなく、まぁ小学生というのはそういうものだと思っていただきたい。

「なりたい」というのは、なってどうしたいとか、なれるかどうかとは別の、憧れ込みの思いなのである。

小学生の高学年になると、まず初めに出てきた「なりたい職業」は物語作家だった。

これは私が本好きだったことによる。

こんな面白い話を自分で作ってみたい、と思ったのである。

次は弁護士。

これはTVの弁護士もののサスペンスの見過ぎである。

「こんな風に鮮やかに事件を解決したい」とか思ったわけだが、当然ながら実際の弁護士は殺人事件の真相を暴いたりはしない。

すぐに覚める夢である。

 

では、これらの「なりたい職業」は、いかにして諦められていくのだろうか。

当然ながら本気でなりたいと思っているなら、その実現のために努力するはずである。

どこまで意識的かはわからないし、単に気が変わっただけかもしれないのだが、なりたいと思わなくなる、別の「なりたい職業」を見つけるからには、それなりの理由があるはずである。

私の場合、単に興味本位だったので気が変わったことが半分くらいだが、プロスポーツ選手系のものに関しては「自分には無理だな」と感じた記憶がある。

野球でいうなら、ソフトボールでの私の打撃は中の下、守備も中の下、走塁は中の上。

ポジションは主に投手だったのだが、売りはボールを狙ったところに投げられることで、球の遅さは一級品だった。

小学生のソフトボールなど、ストライクさえ入れば適当に打たせて取れば試合になるので、私程度でも十分だったのである。

さておき、ソフトボールですらそんな具合なのだから、硬式野球などでは話にならないだろうことは小学生でも想像はついた。

実際、弟が軟式野球(リトルリーグ)のチームに入っていたのだが、自分にはとてもついていけそうにないなと感じたものである。

 

結局長く続けることになっている陸上競技も、中学生のときに挫折している。

小学生のときは学校で1、2を争うくらい足は速かったはずだし、区の長距離走大会では入賞していたりもした。

それでも中学校に上がれば1、2番というわけにはいかなかったし、大会に出ようものなら良くて市大会の決勝に残れるかどうかのボーダーラインだった。

別に陸上選手になるつもりはなかったが、野球よりこちらの方がこたえた気がする。

それなりに努力をして、そんな結果だったからだ。

もちろん「それなり」ではダメなのだろうが、それが「それなり」ではない本気の努力だったとしても何とかなりそうな気がしなかった。

どうしようもないほどの手応えのなさ、力の差。

努力ではどうにもならないことがある、ということを実感した。


多かれ少なかれ、ほとんどの人がそうやって他人との比較の中で夢を諦めたり現実と折り合いをつけたりしていくのだろう。

幼い頃の夢を実現できるのは、ほんの一握りの選ばれた人たちだけである。

今の自分の生活が望み通りのものだという人、夢が叶っているという人はまずまずいるかもしれないが、それとて現実との折り合いで夢のハードルが下がっているから実現できたものであることが多いだろう。

生まれたばかりの子どもには無限の可能性があると言われるし、それはその通りだと思うが、無限の可能性というのは現実を知らない(わからない)ことの裏返しでもある。

生きる中で現実を知ることが、大人になっていくということなのかもしれない。

そう思えば、諦めることを覚えることは一つの成長である。

もちろん比較と妥協により何を諦めるかは、人により種類と程度に差があるのだが、それが大きいか小さいかは当事者には関係のない話である。

自分の世界は自分の感覚がすべてであり、他人と比べて「まだマシ」というのはなんの慰めにもならない。

それは私なんかが言わなくたって、皆、自然と感じることだろう。


小学生の頃、物書きになりたいと思ったことがあった。

それとはまた理由が違うのだが、もう何年も前から小説を書こうとしている。

しかし、いまだ最後までかけた試しがない。

書いていて途中で嫌になる。

自分の文章が面白くないことに。

これもまあ程度の問題というか比較でしかないのだが、自分の納得できるクオリティにならない。

まだ他人の書いたものの方が数倍良い。

敵わないなと思う。

それは叶わないということでもある。

まぁ、だからといって困ることもない。

そうやって自分に言い訳をしながらいろんなものを諦めて、手の届くところのもので満足し、生きていくのが賢い処世術なのだろう。

どこまで思い通りになれば満足で、どこからが不満になってしまうのか。

その線引きが適切にできるかどうかが幸福感が多いかどうかの境目で、逆に言えば幸せなんてものはその線引き次第で作り出すことができるものだということでもある。

まぁ、私はもう線を引くことすら匙を投げている。

幸も不幸もどうでもいい。

生きていることもまた胡蝶の夢のようなものである。

あえて言うなら、ドブに捨てるよりマシな残りの人生の使い方を探しているだけである。

それが今の人生。


自分の子どもが生まれたとして、その子はどんな風にこのプロセスを踏むのだろうか。

そのとき、私は何をしてやれるだろうか。

いや、何もしなくていいのだろう。

親と子なんて、所詮は別々の人間である。

結局は自らが納得できるように、自分自身で経験していくしかない。

それがどんなにわかりきった結末を迎えるものであったとしても、プロセスを踏むことに意味があるのである。

少しドライに過ぎるだろうか。

腹をさすりながら声をかける妻を見ながら、声をかけても腹の子は意味なぞ理解できないだろうに、と思う人間なので仕方あるまい。