異呆人

ノンフェータルなペシミズム

我流っていう言葉の響きはいい

6月から新しい部長兼本部長兼担当役員が来ている。

もうこの兼務のさせ方からして、この会社大丈夫かなと思うところだが、人がいないので仕方ないということである。

毎度そうなのだが、この手の部長・役員クラスの人材は、グループ会社からの出向で来る。

グループ会社といえば、柔らかいが、実質は親会社のようなものである。

親会社は日本の中では中堅どころ、名前を知っている人も多ければ、TVCMを流しているときもある。

それに対して、私のいる会社は末端も末端なので、人材も不足していれば制度も未整備。

ないない尽くしでオンパレード、といった具合である。

 

で、その役員から最近業務の状況をあれこれ聞かれるのだが、何かにつけ「そういうのって、規程か何かで決まってるんじゃないの?」と言われる。

まぁ確かにそれなりの会社であれば、業務の権限や手順が事細かに決められていたりするのだろうが、こちらは「ないない尽くし」なのである。

規程そのものがないこともあれば、規程通りにできることばかりでもない。

そういう風に「綺麗に」業務ができたらいいだろうし、こちらだってそうしたいのは山々だが、そういうわけにもいかないのである。

なんなら、そういうルール整備とかは管理職の仕事なわけだから、つまりあんたの仕事だよと言ってやりたくなるくらいである。

いや、もしかしたら、イライラしてほんとに言っちゃてたかもしれないけど。

 

で、私がああだこうだ言っていると、「自己流で仕事をしないように」と言われてしまった。

それは、その通りである。

業務が属人化してしまうと、どうしても仕事の進め方が自己流になってしまう。

その方が効率は良いことが多いのだが、もしその人がいなくなったときには、手順がわからずに業務自体が止まってしまうこともある。

それが会社としては一番避けるべきことで、そのためにマニュアルを作ったりして標準化することが大事なのである。

 

とはいえ、そのマニュアルが今はない。

作ろうと思っているのだが、目の前の業務をこなすのに精一杯で時間がない。

もっと言えば、私は業務の手順を誰かに教わっているわけではない。

目の前にやるべきことがドンと置かれ、「あと、よろしく!」みたいな状況で仕事をしているのである。

教えられていてその通りにできていないのであれば私が悪いとは思うが、何も教わらずに業務だけ投げられている状況では自己流でしか仕事なんてできない。

いや、むしろ自己流でなんとかなっているだけマシだと思ってもらいたいくらいである。

 

そんな具合で1人イライラしているのだが、向こうだって来たばかりでこちらの会社の状況もわからないだろうし、いきなり兼務で山ほど仕事を押し付けられているわけだからと、少し慮ってみたりしている。

そんな気遣い、おそらく何の意味もなさないだろうけど。

整わない環境で仕事をすることはそれほど嫌ではないが、整わない中で整った仕事を求められるのは理不尽だなと思う。

そして、そういう理不尽には素直に反発するのが私である。

近日中に怒りが爆発しそう。

 

どうでもいいが、我流という言葉の響きが好きだ。

音がいい。

我(が)という主張の強い濁音に、流(りゅう)という文字通り流れるような音の響き。

自分なりのやり方できちんと結果が出せるなら、それほどカッコいいことはないと思う。

筋が通っていて、他人に迷惑をかけないことが前提だが。

 

転職も考えているが、本当の本当は1人で仕事をしたい。

あるいは独立して自分で仕事を作りたい。

家族がいるから、もう冒険はできないのだが。

でも、いつかばっちりタイミングが合って、そういう機会が巡ってこないとも限らないから、ウォーミングアップだけは欠かさないでいたいと思う。

こういうのを希望というのだろうか。

持つだけならタダである。

期待しすぎないことがポイントだな。

ご縁があれば

私は物事について、理に適っていることと、タイミングが合っていることが大切だと思っている。

大前提として論理的な裏付け、理屈、エビデンスがあることが重要だと思っているが、どれほど理屈の上で正しいことでも、時期を逸していたら上手くいかないものである。

それはいわば、「運」の要素もあるわけだが、多少は見極めも効く。

つまり上手くいく時期を見定める、あるいは待つことが必要なのである。

 

3月くらいから、のんびり転職活動をしている。

今の仕事を辞めているわけではないので、今より条件などが良くなることを前提としている。

案件自体はまあまあ数はあるし、私自身が「是非」と思うものも中にはあるのだが、今のところ上手くいっていない。

「転勤なし」「出張頻度少なめ」「年収が現在以上」とか家庭の事情を考慮した条件をいろいろつけているし、キャリア的に多少高望みをしているところはあるので、仕方ないと思うところではある。

これらの条件に該当するもので私の守備範囲に収まるものだと、私の専門知識や業務経験が及ばない。

キャッチアップは早い方だと思うが、世間的には「おじさん」の域に入っている人間を、悠長に育てようなどと思う企業は少ない。

案件が出れば応募者が群がる求人なら尚更である。

 

転職活動をしてみて思うのは、今の仕事はキャリアとして評価されづらいなということである。

「同業種」と言っても、業界の中ではマイナー。

その経験が生かせると考えてくれる企業は、その業種で本流の企業ほど少ない。

加えて、マネジメント経験もない。

いや、実際にはプレイングマネージャみたいなものだが、自分が指示して業務を管理する人間は今のところ1人しかいないし、世間ではそういうのはマネージャと言わない。

社員数が増える予定も当面はないし、広く通用するマネジメントの経験が積める機会というのはしばらく回ってきそうもない。

そういう意味ではなおのこと、本流で仕事をしたい、つまり転職したいと思うのだが、そんなことを言っても詮無い話なのは百も承知している。

 

ただ、まったく無理だという感じでもなくて、企業側の希望と私のスキルや経験がマッチしないだけだと思っている。

100点満点中70点くらいの判定でも、次に同様の人材が採れる可能性を考慮して採用してくれる企業もあるわけだが、余力のある企業は限りなく100点に近い人材を求める。

私の側がこれ以上スキルアップすることは不可能なので、つまりは私のような人材をピンポイントで求めていて、尚且つ私の条件にマッチするところであればいいわけである。

まぁ、そんな確率の低い話はそうそう出てきそうにないが、逆にまったくないわけでもないだろう。

と思って、のんびり構えて転職活動を続けている。

 

私はそれを「縁」だと思っている。

転職なんてものはなおのことタイミングが重要なので、どれだけ私がその企業で使ってもらえる人間でも、求人そのものがなければ話にならない。

逆に私のような人間が欲しいと思ってくれるところがあったとして、私自身に転職の意思がなければそれもまた意味がないのである。

つまり、マッチングしないということは「縁がない」のである。

今はまだ転職する時期ではないということなのだろう。

転職で今の会社に入ったときは、初回の面接から入社までが2週間だった。

たまたま会社がすぐに人が欲しくて、それが私みたいな人間で、私もすぐに入社できるならすぐに入社したいという状況だった。

縁があるときは、そういうものである。

 

私は「縁」が好きである。

ときに自分の選択を運に任せるようなこともある。

高校の時の部活動の選択では、コイントスをして決めた。

大学入試も、本命は後期試験に回して、本意ではないが合格したら入学するつもりの大学を前期試験に受けたりした。

結果が出た方が「縁がある」場所なのである。

ちなみにその2つについては、後々その結果に満足することになっている。

 

それは何か超常的な力を信じているわけではなく、人間がコントロールできる部分の限界を認識しているからである。

努力も意志も、すべてを洗いざらい呑み込むような力に遭遇することはある。

逆に、ほんの少しの力添えで、思うように物事が運ぶこともある。

それは認識できる部分できない部分を含めて膨大な条件・環境がある中で、発生しやすい事象があるということだと思っている。

労力をかけて地面を掘れば、水の流れを変える水路を人の手で作ることはできる。

だが、水は高いところから低いところにしか流れないし、人の手で曲げた部分が後々の災厄に繋がることもある。

自然の流れで起こりやすいことに少し力を加えて自分の望みに近づける方が、最終的には上手く運ぶと思っている。

人の縁もそう。

付き合いの続く人とは自然と続くし、離れる人とは自然と離れる。

無理をしてねじ曲げずとも、収まるところに収まるものである。

 

ということで、のんびり転職活動は継続中。

良い話があれば申し込んでみるし、そのための情報収集だけは怠らずにいるつもり。

かといって急ぐわけではないので条件は下げないし、良い話がない状態が続くなら、しばらく今の場所でいることにすればいい。

それもまた「縁」である。

人生は不平等

このコロナ騒ぎに絡んで、ZOZOの創業者の前澤さんが、「ひとり親応援基金」として私財を投じて10万円を1万人に配ったそうである。

日本全国のひとり親の数からすれば微々たるものかもしれないし、前澤さんからすれば10億くらいでは懐は痛まないのかもしれないが、心意気は見上げたものだと思う。

しかしながら、これに対するネットの反応は「売名行為」だとか、「金持ちの自己満足」だとか、必ずしも好ましいものばかりではなかった。

もちろん、これが仮に売名行為だとしても金持ちの自己満足だとしても、それで助かる人がいるならやる価値のある行為だと思うし、その結果は動機に左右されるものではないから、その価値は動機により下がることはない。

それにもかかわらずそのような批判が出るのは、単に僻みのようなものだろう。

10億をポンと差し出せる財力に対する羨望の裏返し。

みっともない感情なのは間違いないが、わからないでもないのは本音である。

ちなみに欧米では資産家が慈善活動を行うのはごく一般的で、素直に称賛されている。

文化の違いとも言える。

 

前澤さんがそれだけの資産を獲得するに至ったのは、アパレルのインターネット通販を行うZOZOTOWNを起業し、短期間に急成長させたからで、つまりは彼の努力の賜物であるのだが、では同じような努力を同じ程度行えば誰にでも手に入るものかというと、当然ながらそうではない。

そこには運やタイミングや環境など、個人の努力や意志ではどうにもならないものがあり、それがうまく噛み合った人だけが、望むものを手に入れられるのである。

前澤さん以上に商才があり、それ以上に努力している人がいたとしても、同じ結果は得られない。

人の一生というのは、すべからく不平等である。

当たり前のことなのに、多くの人が勝手に比較して勝手に悲観したり、勝手に優越感に浸ったりする。

スタート地点からその道のり、与えられる道具まで何から何まで違うのに、比べても仕方がない。

上を見ればキリがなく、下を見てもキリがない。

 

自慢というのは、それが幸福自慢であれ不幸自慢であれ、誰が一番ということもなければ何が普通ということもない。

もちろん、客観的指標を用いて平均との乖離を考えることはできるわけだが、その置かれた状況に対する個人の認識、主観というのも様々である。

例えば、下の記事における残業の話などが、そう。

 

相対的な基準で批判してはいけない 〜電通社員の過労死自殺に思うこと〜 - 異呆人

 

100時間の残業は客観的指標においては、たくさん残業していることになる。

一方で、同じくらい、あるいはそれ以上残業していたり、過酷な職場環境で仕事をしている人もたくさんいる。

しかし「100時間の残業なんて自殺するレベルじゃないでしょ?」と言うことはナンセンスである。

本人が「死ぬほど辛い」と思っているなら、少なくともそれは本人にとって事実以上の真実である。

仮に10億をポンと差し出せるほど資産を持っている前澤さんが、「生きているのが辛い」と言って自殺したとしても、それは本来誰からも批判されるようなことではないはずである。

当人の感覚は当人にしかわからない。

「私の方がよっぽど人生辛いわ!」と比べても仕方がない。

 

私は人生を壮大な暇つぶしだとも思っており、ある意味でゲームのようなものだと思っている。

配られた手札で遊ぶしかない。

絶望するような手札に不平不満を言っても、交換してくれるわけでもない。

であるなら、少しでも楽しく遊べるように工夫するしかないのである。

いや、どれだけ工夫しても楽しくならないゲームもたくさんあるけど。

 

中学生の頃、乙武さんの「五体不満足」を読んで、えらく感心した。

自分がこれだけの身体障碍を持って生まれたら、同じくらいポジティブにはなれないだろうなと。

ただ、今にして思えば、彼の努力というのは置かれた状況に対して賞賛されるべきものではあるが、何も特別なことではないとも思うのである。

皆が皆、生きるためにそれなりの努力をしている。

結果だけが抜きん出た人が賞賛されたり、あるいはそのヒストリー(ストーリー)が耳目を引くから賞賛されたりするのは、非常に商業的な何某かの意思が働いた結果だと思う。

そういえば乙武さん、不倫騒動で猛バッシングを受けたあと音沙汰を聞かないが、どこで何をしているのだろうか。

もう一生分稼いでいるから、何もしなくても大丈夫なのかもしれないけど。

 

私は、あるいはこのブログは、「社会的弱者」の味方にはならない。

配慮は区別だが、特別扱いは差別である。

健常者と障碍者あるいはうつ病などの心身が磨耗している人を完全に同列に扱うのは論外だが、殊更そうであるからと特別扱いしてしまうことはノーマライゼーションに反する。

また、「普通」に生きている人の苦しみを埋もれさせてしまうとも思う。

障碍もなく、うつ病などでもなく、「普通」でいるようでそれでも苦しい人というのは世の中にたくさんいる。

「私〜だから」と言ってしまえない彼ら彼女らの方が、やり場のない思いを抱えることもあるかもしれない。

むしろ特別な事情のない苦しみの方が、生きることそのものへの普遍的な問いかけを孕むとさえ思う。

 

まぁ、だから何がどうというわけでなく、必要なことは、単にそれぞれがそれぞれの現実と真摯に向き合うということだと思う。

人生の物差しを他人に預けているうちは、その価値を論ずるに能わない。

「私は私」がスタート地点なのである。

6月の花嫁

ようやくの梅雨入り。

私も、多くの人がそうであるように、雨の日は好きではない。

湿っぽいし、傘を差すのが面倒だし。

それでも雨の日が少ないと、渇水にならないだろうかと現実的な心配をしてしまうので、たまに雨が降ってくれるくらいの方が安心する。

 

今月は結婚記念日である。

我が家では、入籍日ではなく挙式日を結婚記念日とすることにしている。

だから入籍日は何もしない。

なんなら過ぎてから気付くくらいで、ほとんど忘れていたりする。

 

今年は妻が美味しい魚を食べたいと言うので、鮮魚中心の割烹料理屋でご飯を食べることにした。

特別な日くらい、特別な外食というのもいい。

最近は子供連れでも入れる店も増えていて、子供用のメニューやしつらえはなくても、乳幼児そのものがNGという店は少ない。

我が子は大人用の椅子さえあれば、持ち運び式のベルトで座らせることができるので、店の選択に困ることは少ない。

逆に、座敷や掘りごたつしかない店だとNG。

じっとしていないから、飯を食うどころではない。

子供は、少なくともご飯を食べているうちは大人しく座っていてくれる。

食べ終わって飽きたら騒ぎ始めるので、1時間から1時間半くらいが頃合い。

 

6月に挙式をしたと言うと「ジューン・ブライドですね」とか言われたりするが、もちろんそんな理由で選んだわけではない。

6月は雨が多いから、費用が安いのである。

そもそも6月が梅雨の日本に「ジューン・ブライド」などという言葉を持ち込んだのもウエディング業界で、つまりはそういうイメージ戦略で6月の挙式を増やそうという魂胆である。

バレンタイン・デーと同じ。

私は挙式も披露宴も屋内だったが、披露宴会場には日差しの入るテラスみたいなものもあり、来訪客の道中もあるので、晴れているに越したことはないと思っていた。

だが、そこは晴れ男の本領発揮というやつで、杞憂に終わるくらいの快晴。

逆に暑くて困るくらいだった。

 

結婚して丸3年が経った。

いわゆる恋愛感情というのは、3年くらいで冷めてくることが分泌されるホルモンからわかっているそうである。

気持ちの盛り上がり、恋の魔法が有効なのも3年間。

私は当初からさほど熱していた記憶はないが、そういう意味ではすでに有効期限切れということになる。

一度だけ喧嘩した(というか、一方的に私が怒った)ことはあるが、概ね仲良く過ごせているのではないかと思っている。

子供が生まれたら妻の愛情は子供に向かうから旦那は冷たくされる、などという意見を聞いたりもするが、我が家ではそんなこともない。

ありがたい話である。

 

結婚生活というのは、他人との共同生活である。

これは、私は実家の家族に対しても思っていることであるため、自分以外の人間と一つ屋根の下で暮らすことは、他人との共同生活だと言ってもいいと思う。

まして実家であれば生まれ育ったときの環境(ルール)は同じわけだが、結婚生活では異種格闘技戦よろしく違う環境(ルール)で生活していた者が同じフィールドに立つわけである。

はなから上手くいく方が稀だと思った方が良い。

いわば、上手くいかない部分をどうやって折り合っていくか、どう妥協していくかが夫婦互いの腕の見せ所というわけである。

 

これは愛情のなせる技というより、もっとシンプルな技術と努力によるものだと思う。

いや、根底に「それだけ工夫や努力をしてもいいと思えるだけの愛情」がある必要があるのだが、それは単に「好きだから」という感情だけで乗り切れるものではないということである。

互いの「継続的な」努力により維持されるのが家庭なのだと、実際に家庭を持ってみて強く実感する。

そういう努力が面倒だと思うなら、一人で暮らしていればいいと思う。

別に、結婚することも、子供を持つことも、人生における「must」ではない。

(そういう社会一般の価値観を跳ね除ける強さは必要だが)

「そういう努力は面倒だけど、一人は寂しい」というのは、贅沢を通り越して傲慢だと思う。

私の場合、「寂しい」という感情は持ち合わせていないので、さほど家庭を持つことで享受できるメリットは多くないのだが。

 

妻はいまだに結婚式の写真を家のあちこちに飾っている。

それを目にすることで、そのときの幸せな気持ちを思い出せるらしい。

こういうのも、一つの工夫あるいは努力だろうか。

そう、「互いに」努力することが大切なのである。

ということで、私は今日も朝から掃除洗濯炊事にと忙しい。

努力の価値がしっかり伝わることを祈るばかりである。

人間も動物

このコロナ騒ぎの中、外出自粛で母親がストレスを溜めていないだろうかと、役所の保健師さんが妻に電話をしてくれたらしい。

うちには1歳児がいるうえ、妻はうつ病歴があり喘息持ちでなおかつ妊娠中ということで、かなり心配されたようである。

まぁ、そのステータスだけ見たら、心配されるのも無理はない。

仕事ではあるのだろうが、気にかけてくれることはありがたい。

それも、そういう自身のステータスを正直に申告したり相談したりする、妻の生真面目さゆえである

幸い、一時期実家に帰っていたこともあり、ときどき息子のヤンチャさに手を焼いてストレスを溜めているようではあるが、特に爆発することなく過ごせている。

 

息子はというと、こちらは1歳3ヶ月でストレスとは無縁。

家の中だろうが外だろうが元気に走り回り、階段を見つけては這い登り、引き出しを見つけては開けてひっくり返し、ときどき電池が切れたように寝落ちする。

この年頃というのはなんでも興味があるようで、とにかく触っては振り回す。

最近のマイブームは人まねで、言葉や仕草を真似して遊ぶようになって、見ていると楽しい。

困るのは、薬やハサミなどの入った引き出しを開けないようにつけていた、ロック用のベルトを外すようになったこと。

両側からつまむように押すと外れるタイプのやつ。

力づくで粘着テープごと剥がされることはあったが、まさか1歳で開け方を覚えるとは思わなかった。

舐めていてはいけない。

引き出しロックは、すべてマグネットタイプのものに交換された。

↓こういうやつ。

新しいデザイン赤ちゃん安全磁気キャビネットロック、引き出しロック(8ロックと2磁気のキーと 1固定器)、環境に優しい材料、子供の安全を守、る簡単な設置、ネジなし、家具へのダメージなし

昨今は子育てグッズもいろいろあって便利ね。

 

妻は子育てに四苦八苦している。

几帳面で、自分の思っている通りにならないと気が済まない性分なのでストレスを溜めやすい。

私なんぞは「まぁそれくらいいいじゃないか」と鷹揚に構えるところも、気になって仕方ないようである。

まだ言葉が通じないので、その点もストレスらしい。

わかってはいるらしいが、いまだに言葉で諭そうとする。

もちろん、言葉を覚えさせるためにも積極的に話しかけてコミュニケーションをとることは良いことではあるのだが、それは解決策ではない。

それでも、「話せばわかる」と思いたくなるのは人情というものだろうか。

 

そういう妻に対して、私の方が子供を制御できていたりする。

それは至ってシンプルで、私が子供の行動を本能に基づくものと解釈しているからである。

ある意味、乳幼児というのは、イヌやネコなどと同じである。

「AだからBする」といった具合に、行動原理が非常にシンプルでわかりやすい。

行動の裏には何らか理由がある。

その理由さえ見つけてしまえば、泣き止ませたり、してほしいことをしてもらったりすることができる。

彼らは、あれこれ頭で考えたりしない。

変に勘繰らない方が良い。

 

妻は息子に歯磨きの習慣をつけさせようと、毎晩寝る前に息子に歯磨きをさせている。

まだ乳歯が上下合わせて8本生えた程度なので、磨くもへったくれもないくらいだが、習慣が大事という妻の言い分を否定するつもりはない。

息子も妻と私が歯磨きをしているのを見て真似したがるので、子供用の歯ブラシを与えると喜んで口に咥えている。

ただ最近、そうしていることが楽しいらしく、歯磨きが終わっても歯ブラシを手放してくれなくなった。

無理やり取り上げると大泣きする。

声も大きいので、就寝前の時間にギャンギャン泣かれると非常に辛い。

 

妻が「どうしたら大人しく歯ブラシを取り上げられるか」というので、私は水の入ったストローマグを息子の目の前に置いた。

歯磨きの後は水を飲むのが、息子の習慣である。

彼は歯ブラシを持ったままストローマグを掴もうとするが、片手ではうまく持って飲めない。

そこで歯ブラシを取り上げると、大人しく歯ブラシを手放し水を飲み始める。

興味から物を手放さないのなら、より興味のある物を目の前に置いてやればいい。

触ってはいけない物を取り上げられて大泣きしているときも同じようなもので、泣いている息子のそばでオモチャで楽しそうに遊んでみせるのである。

すると、「楽しそうだから自分も遊びたい」となって、泣き止んで一緒に遊び始める。

言葉で「これはダメ!」とか「返して!」と言っても、理解できないのだから仕方がない。

習性を理解し、行動を上手にエスコートするのがスマートだと思っている。

 

それは実のところ、犬のしつけと似たようなものなのである。

言葉の通じない彼らと上手に生活するためには、習性を理解し、気持ち良くこちらのルールに合わせてもらうよう計らうしかない。

当たり前だが、人間も動物なのである。

知性が発達するまでは言語的コミュニケーションは成立しない。

そうであるなら、いかに乳児の行動原理と大人の生活様式を合致させるか、折り合いを探るしかないのである。

もちろん、少しずつ言葉を教えて、同じルールに馴染ませていくことも必要だけれど。

そんなことを考えながら、子育てというか、子供と接していると、いろいろ新しい発見があって楽しい。

こちらが勉強になるというものである。