異呆人

ノンフェータルなペシミズム

自分の人生を自分で認めるということ

仕事が忙しかったり、ストレスが溜まったりすると、人間関係が煩わしくなる。

そういうときというのは、自分のことを誰も知らない土地に行って、一から生活を再スタートしたいなと思う。

実際、地縁も血縁もない土地で一から生活を始めるということを何度か繰り返している身としては、そんなことをしても自分が望むものは手に入らないということは知っている。

どこに行こうと何をしようと、私は私である。

私が私として生きる以上、そこでは似たような人間が私の周りに集まり、似たような人間関係が構築され、似たような生活が出来上がる。

だからあくまで夢想でしかない。

いわゆる逃避行的なもので、何かが劇的に変わるという夢想。

 

私は自分の人生に意味や価値はないと思っているが、自分の人生に後悔はしていないし、むしろ自分なりに胸を張れる生き方をしてきたと思っている。

誰かや何かのせいにしたり、誰かや何かに依存したりおもねったりせず、自分の責任において自分で決めて歩いてきたつもりである。

うまくいったことも、うまくいかなかったこともすべて含めて、その結果を引き受けてきた。

たとえ何かを手に入れるために失ったものがあったとしても、それが他人から見れば割に合わないディールだったとしても、自分で望んだことの結果として受け入れられる。

今、私が内包している欠落もきっとその類のものだろう。

傷を勲章と言うつもりはないが、それも含めて自分の人生だとは思っている。

 

自分の人生、あるいは生き方を認めるということは、私にとっては一つのスタイルの完成である。

そこから先に発展性はない。

それが私にとっての「いつ死んでもいい」ということでもある。

今がベストな状態だと自認するからこそ、そこから先の物語を求めない。

「ただ在る」ことの延長線上である。

一つの到達点として、そういう生き方を積極的に肯定している。

ただ、私自身が発展性を感じられず、そこから先を求めていなかったとしても、そこから先を続けるために必要なリソース(時間、資金、能力etc)を所有していることも事実である。

だから私は、それを家族に提供する。

ある意味では、自分のリソースを提供するために家族を持つという選択をしている。

妻と付き合うまで、つまり上述のように考え方を変えるまでは、一切、交際相手を求めることも、結婚しようともしていなかったので、周りはいまだに私の変心を不思議に思っていたりするようだが。

面倒だし、理解されるとも、されたいとも思っていないので説明はしない。

それでもときどき言葉を放り投げたくなるから、こうして文章にする。 

 

なりたい自分、あるいは手に入れたいものがあるのに、それが手に入らないのはストレスだろうなと思う。

それと同時に、そういう人にとっては、そういった理想像がないことのストレスというのはわからないだろうなとも思う。

ずっと何か自分にとっての「やりたいこと」を探してきたけれど見つからなかった身としては、実現可能性はさておき目標に向かって走っている人間が眩しく見えた。

ただ、ゴールがわからないまま悶々と生きていてわかったことは、目標がなくても進めるし、大切なものが見つからなくても身の回りの人や物は大事にできるということである。

向かう先が明確な方が力を収斂できるし、効率が良いのは確かである。

大切なものが明確な方が、あれもこれも守らなくて済む。

だが、無いなら無いで、目の前の状況に真摯に向き合えば良いし、そのときたまたま出会った人や物を大切にすれば良い。

「〜じゃなきゃダメ」という思い込みは人を楽にするが、そういう明確な対象がないと生きていけないわけでもない。

「あるがまま」と言うと最近はなんだか胡散臭い感じがしてしまうのだが、良い意味で肩の力を少し抜いて生きることは、多くの人にとって重要なことなのではないだろうか。

ほとんどの人は「ヒーロー」でも「ヒロイン」でもない。

自分の人生の主役であることは間違いないが、世界においては、残念ながら欠けても構わない歯車にすらなれない存在である。

そう自認してしまうこと、そこからスタートして見方を変えること。

 

死にたいというより、生きているのがめんどくさいと思うことは非常に多い。

それでも、人間なんて長く生きて、せいぜい100年程度である。

死に急ぐほどのものでもないというのが、しばらく変わらない私の所感である。

ただ在ることの辛さと、それを補うほどプラスに働く何かと、どちらが大きくなるかは博打のようなものである。

安易に楽観することは好きではないが、まあ良い方に出ることもあるかもしれない。

辛くて嫌になってしまわないよう、ギリギリのラインだけキープできていれば合格か。

 

最近、仕事の関係で非常にイライラしていたので、まとまりがなくてもいいから文章を書いて落ち着こうと思った。

現実から目を逸らす時間も必要だな。

再考する

先日、書き上げた記事を誤操作で消してしまった。
それなりに長く書いたし、それなりにまとまった内容にもなったと思ったので、消してしまった直後は呆然としてしまったが、しばらくしてジワジワと納得感のようなものが湧いてきた。
どこかに書いてあると思うが、私にとって書くということは、行為そのものがカタルシスになる。
そのことを思い出さされた。
ということで、時間のあるときは書く。
消した記事とはまったく別の内容だけど。

仕事の打ち合わせで、久しぶりにエキサイトしてしまった。
詳細は面倒なので書かないが、承服できない部分があった。
黙っておいてなあなあにしてしまっても良かったのかもしれないが、どうにもそういう性分なのである。
それについては諦めている。
冷静であるとか、落ち着いているという私への評価は間違っていないし、自認するところでもあるが、元々の私は曲がったことの許せない正義感溢れる人間である。
何が正しいかは、さておき。
冷静さとか、批評家然とした態度というのは後付けで身につけたものであり、今の私に占める表面積は大きいし、限りなく本質に近いものとなっているが、オリジナルではない。
だから、そういうオリジナルな自分が顔を覗かせたとき、無理やり押さえつけることもできるのだが、最近はコントロールを手放すことにしている。
ストレスを抱え込む方が面倒なのだ。
「一時的に許可する。好きにやれ」と、自分に指示する。

またストレスフルな状態になってきている。
しばらく前と同じく、仕事が忙しすぎるためである。
加えて、最近妻と子供が体調を崩している。
昨年末に私自身が体調を崩したのもうつされたことが原因だったのだが、結局仕事を休みもしなかった回復速度の異常に早い私と違い、妻と子供は未だにすっきりせず長引いている。
妻が体調不良であると、子供の面倒が十分に見れないため、定時で帰社するよう努力する。
その分、業務に皺寄せがくる。
業務に皺寄せがくると、ついには定時上がりもできなくなる。
そうすると、体調不良なのに放置される妻の精神状態が悪化する。
悪循環。
風邪程度なので身体は心配するほどではないのだが、うつ病歴があるので精神状態には常に注意を払っている。
とは言え、私の力でどうにかなる域を超えてしまっている。
板挟みになってストレスになる。

そういう状況もあってか、釈然としない感じが胸中に渦巻いている。
しばらく気にする暇もなかった、穴の空いたような感覚。
怒りにも似ているし、渇望にも似ている、ずっと消えない感覚。
妻と子供のために自分のリソースを捧げると決め、実際そう行動してきているし、それについて後悔は微塵もないのだが、それでもやはりこれは消えないのか。
何をどうしたらいいかわからない。
自分が何を求めているかすらわからない。
穴の空いた感覚。
違和感。
埋め方がわからないことに対する焦燥。
適当な言葉が見当たらない。
若い頃は掻き毟るような思いで抱えていたが、ある程度飼い慣らした今はそれをただまんじり眺めることになる。
さて、どうしたものか、と。

飽くほど考えてきたことではあるが、私は幸せになりたいと思っていない。
というより、「幸せになる」という表現が不適切だと思っている。
私にとって「幸せ」は、湧いては消える感情である。
維持できる状態(ステータス)ではない。
脳内麻薬みたいなものである。
だから追い求めるべきものではない。
生きていればそういう感情を抱くこともあるだろうし、長く感じられない時期もあるだろう。
そういうものである。
その代わりの指針として、私は「自分の正しさに生き、自分の正しさに死ぬ」ことを心の内に掲げている。
これも状態ではない。
行動(アクション)であり、定期的に回顧して自省するものである。
これは存外難しい。
きちんと自分の中で納得して整理をつけられているならいいが、ともすれば、ただずるずると他人や環境に引き摺られて生きてしまう。
それは後悔に繋がる。
だから私は、自分自身に胸を張れる選択をしているか己に問う。

ただ、そうやって納得できる生き方を心がけていても、空いた穴は塞がらない。
若かった頃のいくつかの大きな失敗の後は、概ね後悔なく過ごせているはずである。
何が足りないか、わからない。
やりたいこともない。
だから、自分だけのために自分のリソースを使うことをやめることにした。
諦めたとも言える。
どうあっても塞げない穴なら、そこに費やすリソースは他の誰かの満足に変わった方がいい。
そういう判断で結婚相手を探すことにした。
あわよくば、自分の人生に対して他者に積極的に干渉してもらうことで、空いた穴が塞がる、自分自身が変わることも期待した。
結果として、自分のリソースすべてを捧げてもいいと思えたのが妻である。
これまでの結婚生活において、この決断を後悔したことはない。
もしずっと一人だったらと考えることはあるし、可能性としてそちらの方が自分に向いていたかもしれないと思うこともあるが、それはトレードオフのないものねだりだと思っている。
子供も可愛いし、大きな不満はない。
ただ、理解や納得感と満足感と、この感覚は別物だということなのだろう。
私自身が家族の影響により変化するということも観察されていない。
残念だが、仕方ない。

ここまでは、もう何年も考えてきたことの繰り返し、その延長線上である。
なぞるように再考する。
変われていない。
変われるような感覚が湧いてこない。
理屈としての正しさなら星の数だけあるだろうが、それが自分のものとして実感を伴って許容されなければならないのだろう。
もしくは主体的に変化を志すほど魅力的な理屈があれば、変化への努力がモチベートされるだろうか。
とりあえずは、ただ生きる。

立場の違い

仕事が忙しい。

それは前々から変わっていないのだが、忙しさの種類が変わってきたと思う。

夏過ぎくらいまでは、とにかく手が足りないという状況で、要は作業の量が膨大であった。

「手が動けば誰でもいいから欲しい」みたいな状況で、派遣社員でもバイトでも何でもいいから事務員が欲しいと主張していた。

まぁ実際それくらい逼迫した状況で、私の残業量も尋常でなくなっていたので、そこは主張が認められて1人採用してもらえることになった。

「誰でもいい」とは言ったが、どうせ採るなら長く勤めてもらえる方がいい。

だから私も人生で初めて採用する側として面接をしたりもしたのだが、紆余曲折あって結果的に他部署で契約終了となる派遣社員さんに来てもらうことになった。

そのあたりの経緯まで書くと長くなり過ぎるので割愛するが、私としては不本意だが認めざるを得ないというような結果である。


実際のところ、来てもらった派遣社員さんは必要最低限のことはできるが、明らかに十分ではなかった。

他部署での仕事ぶりを見て、私は最初からそれを危惧していたのだが、最終的にこの結果を後押しした部長でさえ、「やっぱり3ヵ月でお断りするか?」と言い出す始末である。

ただし、今そんなことをしてコロコロ人を変えている余裕はない。

贅沢は言ってられない。

少なくとも当初「手が動けば誰でもいい」と言ったように、最低限の事務処理は請け負ってもらえている。

私の作業量に少し余裕ができたのも事実である。

前置きが長くなったが、そんなこんなで多種多様な事務処理を高速で捌いていた状況は少し減り、いわゆる考える仕事の量がものすごく増えている。

時間が足りないという点では変わりないが、ひたすら時間との戦いを求められていた状況から、頭と胃が痛くなるような内容を時間をかけて考える状況に変わっている。


以前に書いたが、上司の部署異動のせいで、私はその上司がやっていた部長の仕事をする羽目になっている。

立場はいわゆる主任クラスのまま。

対外的にだけ示しがつかないので、なぜか名刺だけ課長にされている。

日中の過半が会議や打ち合わせになることもあるし、いろんなメールが飛んできて対応を求められたり、社外や他部署との調整に時間や労力を割いたりしている。

会社の体制が今年の4月から大きく変わっているので、前例がないことも多い。

「あるべき姿になっていない。だから何をどう変えなければいけない」というのはまだ良い方で、「そもそもどうあることが正しいのか」というところから議論しなければならないこともある。

そしてその議論を主導するというか、方向付ける必要があるのが私だったりすると、頭も胃も痛くなろうというものである。


苦情とか取引先の事務不手際をまとめる役割もある。

どうにもならなくなった案件が回ってきて最終対応をすることになったり、部署として苦情などを取り纏めて報告したり、再発防止策をまとめたり、「それじゃ不十分だ」「そもそもなんでこんなことが起こるんだ」などと言われて擦った揉んだしたりしている。

取引先の管理、営業の管理、苦情等の管理、それに加えて来年度作る新しい部署の体制作りもある。

何名採用し、そこでどんな業務を担うのか、目標を達成するために何をいつまでにどんな方法で行うのか。

報告書をまとめて、ああでもないこうでもないと方々から言われ、頭を抱えては調整に走り回る。

極め付けは、そこの管理も今の業務と兼務で私が行うことである。

明記はされてないけど既定路線。

「兼務」と言ったら、監査役には鼻で笑われた。

私だって自分ごとながら笑ってしまう。


そんなこんなで、頭の中が毎日パンクしそうなのだが、それでもときどき雑務をしていたりして怒られる。

荷物運びとか、倉庫の整理とか。

そういう単純作業が好きなのもあるし、そういう単純作業に逃げたいという気持ちもあるかもしれない。

「そういうことは人に任せろ。お前にやってもらいたい仕事はもっと別にある」と上司から言われ、それはその通りと思いつつも、どこかしら釈然としないところがある。

偉くなりたくないというか、偉くなったと思いたくないというか。

いや、偉いとか偉くないとかではなく、単に役割の違いでしかないのだが、指示だけ出して自分が動いていないと、偉くなったと勘違いしてしまいそうで怖いのである。

なんというか、昔から持っている権力みたいなものへの反骨心もあるのかもしれない。

あとは単に自分の中の時計が止まっていて、まだ若手だという意識があるのか(いや実際まだ若い方だとは思うが)。


久しぶりにストレスらしいストレスに曝されながら、歯を食いしばって前に進んでいる。

必要なのは、覚悟と適度な開き直り。

やるだけやって、できなければごめんなさい、である。

それは立場が変わっても変わらないこと。

自分の身の丈で勝負するのみである。

あなたもわたしもだれかのだれか

妻の従兄弟の結婚式で、小旅行をしてきた。

0歳児を連れて、飛行機に乗っての旅行というのもなかなか大変ではあるが、加えて義父と義理の祖父も同じ旅程で行くことになり、道中の交通や宿の手配を私が行なったので、それはそれはなかなかの手間となった。

手間と言っては言い方が悪いか。

手間賃のように多めに旅費を受け取っているし、文句を言う筋合いはない。

それに確かに私は出張だなんだで旅慣れているし、今回の目的地の土地勘もあった。

セッティングして案内するくらい訳無いと言えば、その通りでもある。

 

さておき、どういうわけかは知らないが、私は義理の親族にえらく信用されているらしい。

何かにつけ「しっかりしている」と言われてはアテにされる。

義理の親族だけでなく、義妹の夫とか、もうそれほとんど他人じゃないかなと思う人にまで、「お義兄さんの意見が聞きたいので、今度食事でも」と言われたりする。

ありがたい話と言えば、そうかもしれない。

それだけ、妻の「夫」という役割というか立場というかを、上手に演じられているということもあろうか。

私にとっては、「夫」であることは楽である。

理想とされるあり様があり、ただそれに合わせて振る舞っていればいいのだから。

そういう気楽さを結婚に求めたということも一部あるし。


私は妻を愛している。

優先順位として、誰よりも愛している。

それは彼女が彼女だからではなく、彼女が私の「妻」だからである。

もし、他の女性が私の妻だったら、私はその女性を誰よりも愛するだろう。

それが関係性というものである。

もちろん、私は彼女が彼女だから「妻」という一番愛するべきポジションを提案したし、それをして間接的に「彼女が彼女だから愛している」とも言えるのだが、そこの差というのは些細だが大きいと思っている。

なぜなら私が関係性に基づいて行動する以上、妻がどれだけ豹変しようと、どれだけ妻より魅力的な女性が現れようと、私は妻を最優先にするということになるからである。


本当の意味で、私たちは誰かが誰かであるゆえに愛するなどということはできないと思っている。

だから「なぜ好きか」という理由を求めたがる。

それは逆にいえば、同じ条件を持つ相手なら誰でもいいと言っているのと同じである。

もちろん実際には、そうやって挙げられる2,3の要素だけで相手を愛しているわけではないのだが、そうやって条件を挙げてしまえること自体がその人のスタンスを象徴している。

人は人生において、限られた選択肢の中で判断せざるを得ない。

人生の伴侶を決めるときも、所詮はその時の手持ちの選択肢の中で最善を選んでいるに過ぎない。

だから、その後により良い選択肢に巡り合うことなんてザラにあるだろう。

しかしそうやって巡り合う相手も、所詮は「その時の最善」に過ぎないのである

「その時の最善」を選び直すこと自体が悪いわけではないが、それはさらにその後により良い選択肢が現れる可能性を自ら認めるようなものである。

キリがないし、その時の最善を自認した相手にも不誠実ではある。

だから私は関係性に基づいて妻を愛しているし、その関係性を良いものとして維持するためにできる限りの努力をする。


そこまで極端に考える人は少ないにしろ、人は皆、誰かとの関係性に基づいているというか、縛られていると思う。

親子であったり、夫婦であったり、友人であったり。

そういった関係性の中に身を置くことで安心しようとする。

誰かの特別であろうとする。

あるいは自分の境遇を誰かのせいにしようとする。

それは自然なことであり、楽なことでもあるのだが、強くしなやかに生きるには、そこから一歩進んで「誰かの誰かでない自分」というものを身につける必要があると思う。

自分の責任において自分の人生を引き受けるということは、思うほど楽なことではない。

だが、それが身についている人というのは、人として芯が通っている。

誰かとの関係性においても簡単にブレない。

そういう人間になりたいなと思う。


関係性という意味では、人との関係というのは合わせ鏡のような側面があるなと思う。

例外がないわけではないが、こちらが関係性を良好に保つ努力をし、それが相手に伝わっていれば、相手もそれなりに応えてくれるものである。

相手が応えてくれない場合というのは、概ね一方の努力が適切に伝わっていない。

世の中、好かない相手とも付き合わざるを得ない場面は多々あるが、自分から「苦手」の意思を表さなければ、「あなたと良好な関係でいたい」という意思表示が伝わっていれば、そうそう邪険にはされない。

邪険にされても、こちらが丁寧に返していると相手の対応が変わることも多い(本質は変わらないが)。

忍耐である。

面倒だが、避けて通れないこともある。


あと、類は友を呼ぶ。

私の周りは一風変わった人間が多いが、それは他ならぬ私自身が変わり者だからだと思っている。

人間関係に恵まれないと嘆く場合、環境を変えるのも手ではあるが、意外と自分のあり様を見直すことが有効だったりする。

まぁ、簡単に見直せるものでもないが。

そういう意味で、奇譚ない意見を言ってくれる友人というのはありがたい存在である。

自分のことは自分が一番よくわかっているのは当然だが、灯台下暗しよろしく死角はある。

自戒を込めて省みたいものである。

考えなくなる

風邪を引いた。

妻と子どもが先に風邪を引いていて、私だけは大丈夫だったので、安心というか過信していた。

元来、身体は丈夫な方である。

体調を崩しにくいことについては、根拠のない自信を持ち続けている。

ところが、妻と子どもの風邪が快方に向かっているくらいの日に、仕事中に急に悪寒がし始めた。

朝から少し喉が痛いかなと思っていたので、風邪だなとわかった。

発熱しているのもわかる。

体温計など使わなくとも、38度近い体温になっているだろうと思った。

普通に残業までこなして家に帰り、体温を計ってみると案の定、37.8度。

どうりでしんどいはずである。

 

妻も子どもも発熱までには至らない軽い症状だったのに、私だけが筋肉痛が起きるほどの発熱だった。

免疫が弱っているのかなと思う。

ときどき、リンパが腫れているのを感じる。

ここ最近の一番の身体の悩みは口内炎だったりする。

治っては、またでき、治っては、またでき、を繰り返している。

食べることが辛いというのはなかなかの苦痛である。

それが繰り返すのだから、あまり良い気はしない。

やれビタミンが足りないのだとか、ストレスだとか言われるのだが、言ったってどうにもならない。

さほど偏った食事をしているわけではないから、わざわざビタミン剤を買うのももったいない気がするし、ストレスに至っては概ね仕事絡みなのだから避けようがない。

そもそも気に病むほどのストレスは感じていないし、いわば多くの人が他人と接する中で感じるそれと同程度のものだろうと思っている。

 

仕事の中身が変わり、社内や社外の人と折衝する機会が増えた。

元々、営業職だったので、他人と接する機会はもちろん多かったのだが、接する相手は「顧客」という属性ばかりだったので、接し方は基本的に一様だった。

それが社内の他部署の人だったり、業務委託先の企業の人だったり、こちらが顧客である取引先の人だったりと、今は多様になっている。

そういう意味では考える内容や接し方などは複雑になったりしているのだが、それでも仕事として適切な答えを探すために思考しているということには変わりない。

いかに効率的に適切な回答を導き出すか、その繰り返し。

それが仕事といえば、それまでで、その通りである。

 

ただ、そういった仕事としての思考は、いわば妥当な解をいかに早く見つけるかということであり、つまり経験という引き出しが多く、かつ整理されていれば、ほとんど「思考」という過程を経ずに処理することができる。

いきなり難しい課題をいくつも抱え込むことになったとはいえ、私も経験や知識がまったくないわけではない。

取り得る選択肢は限られているし、限られた中で何が最善かを検討するだけである。

意外と、思考の過程は短い。

何が言いたいかというと、いかに仕事の中身が難しくなったとしても、さほど考えてはいないということである。

確かに頭を使う仕事をしているのだが、作業のような思考がほとんどで、考えていないに等しい。

 

そう、考えなくなっている。

自分の中の引き出しで、持てる知識や経験で対処するということは、そういうことなのである。

考える時間が省略されるから処理が早い。

そこが玄人と素人の違いでもあるのだが。

自分の中のアリモノで対応してしまっている、できているうちは、思考しない、成長しないのである。

まったく新しいことに取り組み、それに関する思考回路を一から組み上げるようなことをしなければ、考えるという時間がどんどん少なくなってしまう。

 

最近、インプットの量ほどアウトプットしていないのに、フラストレーションが少ないと感じている。

元々、このブログを始めたきっかけもそうだった。

日々多様な情報に接し、いろいろ思うこともあるのに吐き出す先がない。

だから文章にして整理し、そこにカタルシスを求めたのだ。

インプットする量は以前とさほど変わっていない。

それなのにアウトプットする量が減っている。

それは接した情報が私にとってただの記号、部品、材料でしかなく、自分の血肉となるようなものでないからである。

思わず考えさせられるようなことに触れていない。

だからアウトプットせずとも、触れた情報は整理して引き出しにしまっておけばいいとなってしまう。

歳を取るほどに真新しいことに触れることは少ないから、仕方ないと言ってしまえばそれまでだろうが。

 

もっと本を読まないといけないかな、と思う。

世の中に溢れている情報の多くは、軽くて薄い。

吹けば飛びそうなくらい。

「ああ、そうなのね」と相槌を打てば終わってしまうような。

人生というものについは散々向き合ってきたのだが、改めて今、もう一度考えてみるのも悪くないかなと思う。

ただ、現実はそれよりもっと質量を持って目の前に存在しているから、変に現実と異なる解答、それを否定するような解答に至ろうものなら煩悶してしまわないかということが心配だったりする。

そう考えると、あえて私はあえて考えることを避けているのかもしれない。

まぁ、そもそも時間がないということもある。

 

しかしよく考えると、私は考えないくらいがちょうどいいのだった気がする。

考えると面倒になる。

生きているのも何もかも。

目の前の現実という質量を抱えながら、ずぶりずぶりと沈んでいかないといけない。

どこかに飛んでいかないように。

だから考えるより手を動かす。

そうやって、薄っぺらくなる方が生きやすいというのも妙な気がしないでもないが。