異呆人

ノンフェータルなペシミズム

混ざり合った世界から取り出す

夢を追いかけることの素晴らしさを謳ったものはいつの世にも溢れている。

私はやりたいこととか夢みたいなものがない人間なので、どちらかというとそういうフレーズには辟易してしまう。

「やりたいことを見つけよう」とか「夢を諦めないで」といった文言を見かけると、「うるせぇ、ほっとけ!」などと思ってしまう。

夢とか目標みたいなものがあることの素晴らしさは認めるし、ないよりあった方がいいとも思うが、そういったものは誰もが抱けるものではない。

まるで義務のように喧伝されてしまうと、夢を抱けない人が怠惰だったり劣ったりするかのように聞こえてしまう。

言っている方にその気がなくても、受け止める方がそう受け止めてしまうのではないかと思うのである。

個性がどうとかいうのも同じ。


ただ努力をする人間を馬鹿にするような風潮もどうかと思う。

私は「意識高い系」という言い方が好きではない。

意識が高いこと、目標や理想像を持ってそれを追いかけることそのものは悪いことではない。

まぁそんな揶揄のされ方をする場合は、概ね努力の方向が間違っていたりするのだが、それはそれである。

人に先んじて高みを目指すことを否定する風潮が生まれると萎縮する人も出るだろう。

人から揶揄される程度で萎縮するような人間ならそれまでと言えば、それもそうだと思うが。


人によって価値観も違えば、能力や境遇も違う。

極端に、何が正しいとか、こうでなければならないとか、そういった断定的な触れ込みが多いように感じる。

夢を追いかけたって、堅実に生きたって、そんなものどちらでもいいではないか。

それはそれぞれのメリットとデメリットを勘案し、個人が自由に決めることである。

自由に決められるということは結果を引き受ける責任を負うということでもあるのだが、人生というのはその責任を引きずりながら歩く道のりである。

逃げられはしない。

誰かに選択を委ねることも「選択を委ねること」を選んでいるのだし、選ばないことも「選ばないこと」を選んでいるのである。


お金に関しても、世の中に溢れている価値観には極端なものがままあると思う。

拝金主義と言われるほどに社会的成功を追い求めるのはどうかと思うが、お金を稼ぐことそのものは否定されることではない。

先立つものがなければ生きていけない。

愛だけでは飯は食えない。

もちろんお金がなくても幸せに生きていくことはできる。

しかしそれはあくまで「そういう事例がある」というだけで万人に当てはまるわけではない。

金の切れ目が縁の切れ目になることもあれば、愛さえあれば他に何もいらないこともある。

自分には何が当てはまるのか。

世の中に溢れる価値観から単に都合のいいものを選ぶのではなく、本当に自分が大切にしたいものや望む生き方と向き合って考えなければならない。

借り物な所詮、借り物である。

咀嚼して自分の血肉とならなければ、いざというときに張りぼてが剥がれ落ちる。


中庸というものを説きたいわけではない。

現実が混沌であると思うだけである。

ほどほどが良いわけではなく、Aが良い場合もあればBが良い場合もあり、その中間が良かったり、3:7でAに寄ってる場合が良かったりもするのである。

正解はあるのだが、その人によって、あるいはその人の置かれた状況によって異なるのである。

拙速に、手軽に、答えだけを得ようとする風潮はインターネットが普及して、情報へのアクセスが簡便になり過ぎた故だろうか。

風に吹かれてなびくように、情報に過敏に反応して右往左往する人が増えた気がする。

思考停止。

誰それが言っているとか、どこそこに書いてあるとか。


そんな世の中に思えるから、たまに芯の通った人に出会うとなんともホッとする。

自分の境遇により過ぎず、かといって社会とか他人に価値観をおもねるでもない。

自分も他人も客観的に捉えられるけど、その上で「私はこう思う」という考えのある人。

そういう人と、ただダラダラ酒でも飲んでいたい。

なんだか安心できないのである。

いろいろな物事が。

「おいおい、それで大丈夫か?」と思って見ていると、案の定、大丈夫でないやつ。

あまり他人に口出ししたくないのだが、口を出さなかったがゆえに転ばれるのも寝覚めが悪い。

はい、ただの愚痴です。