異呆人

ノンフェータルなペシミズム

悲観主義者の傍観

川崎での通り魔の事件といい、池袋での事故といい、本意でない死というのは痛ましい。

死の先が実のところどうなのかということはさておき、本人にとっても、あるいは遺族となってしまった人にとっても、恐らく準備のできていないことだったのだろうから、心痛は察するに余りある。

何度もこのブログで書いているが、悪意というのは防ぎようがない。

あるいは事故のような過失についてもそうである。

無言で、あるいは雄叫びを上げながら刃物を振り回して迫ってくる相手に対して何ができるというのか。

高速度で迫ってくる車から逃れる術などないに等しい。

滋賀は大津での事故などもそうだが、あるいは震災などの話でも皆そうだと思うのだが、どうすれば防げたか考えることは悪いことではない。

しかし防ぎようのないものもあれば、事後になってからだからこそ言えることもある。

故意や、過失とは言えないようなお粗末な不始末はともかく、それを遡って犯人探しをすることにどれほどの意味があるだろうか。

どうしようもないものというのは世の中にたくさん存在する。

経験の少ない若者ならともかく、いい歳した人間どもが寄って集って「こうしてれば、ああしてれば」と言うことがみっともなく思える。

少し話は逸れるが、今回の川崎の事件では加害者は最後に自殺したわけだが、これは生きて捕まって死刑になることといかほどの差があるだろうか。

無意味な反省論や感情論を展開する人々というのは、そういったことを真剣に考えたことがないのではないかと思えてしまう。

 

子供が産まれてから、いや正直に言えば結婚してから、妻や子供が死ぬ妄想をよくする。

妻が病気で亡くなったら、妻と子供が強盗に殺されたら、出先で事故に遭ったら、あるいは妻が強姦に遭ったら、自分の過失で子供を死なせてしまったら。

結婚したあとは月に数回だったが、子供が産まれてからはほぼ毎日考えている。

そういう場面を想像して感情を呼び起こしてみたりもするが、そんなことよりもっと淡々とその後自分がどうするかを考える。

2人がいなくなっても自分は1人今の3LDKの部屋に住み続けるだろうか。

また結婚したいと思うだろうか、子供を持ちたいと思うだろうか。

義理の家族との関係はどうなるだろうか、自分はすぐに仕事に復帰するのだろうか。

そんなことを想像する。

耐性をつけたいわけではない。

想像で得られるインパクトと実際に事象が発生したときのインパクトは異なる。

自分以外の周囲の反応だってあるし、想像通りにはいかない。

だからそんなことを考えたところで心の準備にはならない

所詮は意味のないことである。

そういう想像を頻繁にすることが一般的なのかどうかは知らない。

私はただ興味で想像していると言える。

それだけ。

 

失うことが怖いと昔は思っていた。

失うなら、最初から手に入れなければいいと思っていた。

それは今でもそういうところがあるのだが、それでも昔よりはいろんな物事を受け止められるようになったと思う。

結婚するということは、そういう失うリスクをたくさん背負うことでもある。

ただ私にとっては、そのリスクを引き受けてまで自分が結婚したかったというよりは、今ならそのリスクを引き受けられるから結婚してもいいかもしれないと思ったという方が正しい。

私の中には、目の前の誰かを好きになってどうしようもなくなるような、恋愛的思考回路は存在しない。

妻と結婚したいと思ったのではなく、結婚しようと思って相手を探して妻と出会ったのである。

感覚としては見合い結婚のそれに近いのかもしれない。

私に感情の盛り上がりがあったわけではない。

だからもし妻と別れるようなことがあれば悲しむと思うのだが、そのときに自分がどういう反応をするのかわからない。

わからないから興味があるし、だから想像してみる。

 

その想像が意味のないことだとは思うが、しかしそれがまったく起こり得ないことではないと思う。

いや、家族を失うだけでなく、同じくらいの可能性として自分が死ぬ可能性もある。

そう、自分が死ぬことも想像する。

急に事故で死ぬような場合。

病気で徐々に身体が動かなくなるような場合。

病気だったら、自分はそれを周囲に伝えるだろうか。

仕事は続けるだろうか。

急に考え方を改めたりするのだろうか。

それから死んだ後の周囲の反応、状況を想像する。

これも意味のないことである。

考えたからといって、できることなどない。

できることはすでに手を施している。

単なる興味。

まぁ、きっとその光景を見ることはないのだろうけど。

 

その想像に意味はない。

生きていることにも意味はない。

それでも、人は生きる限りは生きるだろうし、死ぬときは死ぬのである。

生物というのはすべからくそういう風にできている。

逆らうことにも、抗うことにも意味はない。

受け入れて、ただ在ることを受け入れて、一歩一歩進んでいるような気になっていればいいのである。

何を手に入れても、何を失っても、胡蝶の夢のようなもの。

いずれゼロになる旅路の途中である。