異呆人

ノンフェータルなペシミズム

身内と他人

とある世間話の延長線上で、仕事相手の女性が自分の母親が亡くなったときの弟の対応を非難していた。
母親の危篤の連絡を弟にしたのに仕事を抜け出さず、遠方だったので翌日に来たときにはすでに亡くなっていたそうである。
仕事をしていたがために親の死に目に会えないとは何事か、ということであった。
親への感情もいろいろあろうし、死生観もいろいろあろうから、どちらがどうだと言うつもりはない。
ただもの凄く一般化して言うなら、身内に対する男女差のようなものもあろうかと思う。
比較的という前提付きで、男性はよく「身内だから」という理由で身内を後回しにする。
女性はよく「身内だから」という理由で身内を優先する。
この場合、男性は身内を大事にしていないわけではない。
一種の甘えであり、信頼の裏返しである。
身内を守るために他人への対処を優先するとも言える。
それは男性が外に稼ぎに出て収入の柱を為すという社会構造所以のところもあるので、これからの時代、少しずつ変わっていくのかもしれないが、少なくとも今観察できる範囲においてはそういう事例が多い。
上述した2つの考え方というのは相容れないもので、どちらが良いとか悪いというつもりはない。
共感できなくても、理解を歩み寄らせることくらいはしてもいいのではないかと思うが。

さておき、私は親も子も妻を含めた家族も、皆他人だと思っている。
私の思想信条はさておき、私は愛妻家だと思われているそうである。
確かに行為や事実だけを抜き出せば、そう捉えられるかもしれないなとは思う。
逆に言えば、私が一般的に愛妻家と見られるだけ妻に尽くすのは、妻を他人だと思っているからである。
「釣った魚に餌をやらない」という言い回しがあるが、その言葉を借りるなら釣ったつもりなど毛頭ない。
魚だというなら、大海を自由に泳いでいるはずである。
だから側にいてもらうには撒き餌をする、ではないが言葉や行動で愛情を示し続ける必要があると思っている。
結婚したから、身内だからこのくらいでいいだろうとは思っていない。
もちろん、家族としての接し方やら時間の過ごし方などはあるが、基本的に交際時と対応は変えていないつもりではいる。
同程度には気を遣っている。
だからこそ、「あまり気を遣わないでいい」という相手に求める要素が、私には大事だったりした。
子供についても、私の子ではあるが私の所有物ではないし、教育や養育は義務なので野放しにはしないが、基本的には好きに生きればいいと思っている。
他人である。
まぁまだまだそんな話をする段階にはない。
ただの考え方の話。

人は何をどうもってして、赤子を「自分の子」と認識するのだろうか。
先日読んだ文章に「女性は産むことで母になり、男性は育てることで父になる」という記述があった。
もちろん、根拠はない。
そうであるなら、養子を迎えた場合などは男性は「自分の子」という認識はできても、女性はそうはいかないのだろうか。
いわゆる赤子の「取り違え」などの場合はどうだろう。
自分が「産んだ」という事実があれば、例え引き渡される子に血の繋がりがなくても気付かないのではないだろうか。
もしそうなら、血の繋がりというのはあってもなくても同じで、「血の繋がり」という考え方そのものがコミュニティにより醸成されるものではなかろうか。
最近、「自分の子は格別に可愛い」という感覚を抱く。
これは何によるものか。
甥や姪が産まれたときも可愛いと思ったが、やはり自分の子供の方が可愛い。
血が繋がっているからか。
自分と容姿が似ているからか。
いや、仮にこの子が取り違えられた血の繋がらない子であったとしても、私の感覚は変わらないだろう。
すると特別だと思えるのは、何によるものだろうか。
それは責任によるのではないかと思う。
「育てなければならない」という責任が、子への愛着を醸成する。
他人の子も可愛い。
容姿や仕草だけを取り上げるなら、自分の子より可愛い子など五万といる。
しかしそれらは無責任の可愛いである。
そこに「その命が自分の支えなしに生きられない」という事実が加わることで、その可愛さは跳ね上がる。
もちろん、その責任が「可愛い」に昇華される前にその重さに押し潰される人もいるわけだが、逆にそこを乗り越えてしまう親の愛情というのは総じてそれだけ大きいと言えるだろう。
まぁ大きければいいというものでもなく、歪んだりなんだりしてしまうこともあるものだが。

さておき、この「責任」との関係性で言えば、親から子への愛というのは、愛と同じくらい情の側面も強いのだと思う。
「長く一緒にいるうちに情が移っちゃって」とか言うときの「情」。
前述の使い古されたフレーズも「この人には自分がついていないと」というような妙な責任感からくるもので、その点において同種だと言える。
だから親から子への愛というのは、単なる愛ではなく愛情と言う方がしっくりくるのかもしれない。
愛情は責任感を伴っている、と。
そしてこの情というものは責任感によって生じ得るが、時間をかけることによりさらに醸成される。
これは物に対する愛着と同じ理屈である。
かけた時間が長いほど、払った代償が大きいほど、人はそれらを費やした対象を否定できなくなる。
高い買い物をしてしまうと、多少の不満には目をつぶってしまう。
だから育児が大変であればあるほど、そこに時間と手間をかけるほど、子が自然と可愛く思えてしまう。
育児は多くの人にとって概ね大変である。
ゆえに子供を否定する親は少ない。
よく出来た仕組みである。
まぁそんな風に解体して考える人などそういないだろうが、無意識下でそういう事象が生じているのではないかと私は勝手に考えている。

理屈はどうあれ、可愛いものは可愛い。
目がだいぶ見えるようになってきたらしく、対象をしっかり目で追う。
私を見たら笑う。
しかしそれは私を親だと認識しているからではない。
贔屓目なしに見れば、誰を見ても笑う。
それを「私を見たから笑った」というのはご都合主義の解釈なのだが、概ね人はそう解釈したがるし、そう解釈するから余計に可愛く思える。
子も可愛く思ってもらうことで自分を守ってもらえるわけで、もちろん0歳児がそんなことを考えるわけはないのだが、つまりやはりよく出来た仕組みだなと感心する。
その仕組みに積極的に乗っかっていくことで、私は恣意的に自分を親にしていくことができるのだと思う。
「子もまた他人である」という思いはそのままに、生物としての仕組みに、社会の仕組みに沿って踊る。
滑稽といえば滑稽。
しかしそうしてようやっと人の形を保てるなら、それが普通に生きるということなら、それはそれでいいのだと思う。