異呆人

ノンフェータルなペシミズム

人付き合いの技術

久しぶりに出張に出ている。

まだ引き継ぎの終わっていない取引先があるので、それを整理するためである。

子供が幼いので家を長期間空けることに抵抗はあるが、そうでなかったとして残業続きで帰宅は22時頃という有様なので、さして家事育児の役には立たない。

出張自体はいずれ避けようのないものではあるし、そんな状況でもあるし、まあ仕方ないことと私はあっさり思っている。

しかし妻からすればまた違う言い分があるようで、出張すると言うとあまりいい顔はされない。

曰く、「私の精神衛生上良くない」と。

精神衛生上と言われると、常日頃私はそれだけ妻の精神衛生に良い影響を与えるほどのなにがしかを行えている気はしない。

労いの言葉をかけたり、マッサージをしたり、スキンシップに応じたりする程度である。

それが重要なのだと言われればそうなのかもしれない。

ただ、妻が「精神衛生上」と言った理由はもっとシンプルだった。

これまた曰く、「(私が)いないと1日中会話がなく過ごしてしまう」と。

スーパーで「袋はおつけしますか?」、「いえ、持ってます」程度の会話しかしないと。

なるほどな、と思わないでもない。

 

これは妻が妊娠中、仕事を辞めてしばらくの間も言われていたことである。

(仕事自体は妻の積極的な意向で辞めている)

これが私には理解が難しい。

正確に言えば、共感が難しい。

私自身、妻と交際する前は休日は1人で過ごす時間がほとんどだったし、1日中言葉を発さずに終わる日も少なくなかった。

インプットに対してアウトプットが極端に少ないとモヤモヤするのでこうやって文章を書いたりするが、別にこのブログとてさほどリアクションがあるわけではない。

つまり誰かしらの反応がある、会話のような形式は求めていない。

その証左、というわけではないが、別に妻との会話があるからブログを書かないということはない。

たぶん私自身にとって、会話というのは重要なものではないのだろう。

だから、とりあえず話を聞いて相槌を打ってくれる人がいる、ということが大事だという感覚に「そうだね」とは言えない。

残念ながら、特に女性の多くにとっては、コミュニケーションの中身ではなく、そういうコミュニケーションそのものが重要であるのだが。

 

そういう会話云々に関わらず、私の共感のポイントというのは少なくとも世の中において多数派ではない。

私のしてもらって嬉しいことは、誰かのしてもらって嬉しいことではない可能性が十分にある。

私のされて嫌なことは、誰かのされて嫌なことではない可能性も十分にある。

いやむしろその真逆、私のしてもらいたいことが誰かのされて嫌なことだったり、されて嫌なことがしてもらいたいことだったりすることもままある。

人は自分という主体を中心に生きているわけではあるが、そのズレが大きい人ほど自分自身を客観視することが求められるのではないかと思う。

自分の正解だと思うことが、世間一般においてそうであるとは限らない。

まあ私の場合、そこまで理解した上で自分の答えを叩きつけることも多いが。

 

さておき、ではズレている私は他人とのコミュニケーションにおいて悪戦苦闘している、あるいはおっかなびっくりであるかと言えば、そうではない。

もちろん、そういった客観視がきちんとできるまでは、幼少時というのはおっかなびっくりであるわけだが、ずっとそうであるわけではない。

そういった経験の繰り返しから学習して、技術を身につけていくのである。

コミュニケーション、あるいは人付き合いというのは技術である。

得意不得意はあるだろうが、誰しもやってできないことはない。

苦手でも上手に人付き合いをこなす人はたくさんいる。

人付き合いが上手にできないのは意欲の問題である。

日本人にとっての英語と同じようなものである。

日本人の言語能力が低いわけではない(日本語と英語の言語構造の違いが影響しないとは言わないが)。

概ね、話さないから話せないのである。

話せなくてもいい環境だから、話さなくて済んでしまう。

だから一部の意欲的な人だけが習得するスキルになってしまう。

人付き合いも、誰もが上手にこなさないと生きていけないわけではない。

避けようと思えば避けられる。

ただ避けると技術が身につかず、「苦手」が「できない」に変わってしまう。

 

人付き合いの技術の要諦というのは、相手の思考を推測することである。

何を考えているか、何をしてほしいか、何をしてほしくないか、を推し測ることである。

これは「世間一般多くの人は」といった大雑把なものから「この人は」といった個別のものまで様々である。

厳密な正解は人の数だけ存在する。

自分の経験をカテゴライズしていき、どれだけ多様なパターンに対応できるデータベースを作れるか。

それが誰でも習得できる人付き合いの技術である。

技術といっても単にデータベースから引き出すだけである。

要は経験の集積である。

つまり技術を身につけるには、多様な人とたくさん接するしかない。

時に失敗しながら学ぶしかない。

もちろん、大人になり社会的な立ち位置が変わるほど、失敗というのは許されなくなる、というか失敗したときの傷が深くなる。

「失敗を恐れずに」などと悠長なことを言えるのは若いうちだけである。

 

では長じてから技術を高めるのは不可能かというと、そうではない。

別に直接に接する必要はない。

観察していればいいのである。

じっと見ていればただの怪しい人だが、職場や学校で他人の雑談を横で聞いていることはさほど難しいことでもないだろう。

その人に興味がなかろうが、その話に興味がなかろうが、それで少しでもデータベースが豊富になるなら儲けものである。

それで得たデータは、仮にその人と接する機会があればフィードバックして使ってみればいい。

そうすればより精度が向上する。

それの繰り返しである。

もちろん、そんなことをしなくたって生きていけるわけではあるが、避けるなら避けるで避けたことによる弊害はあるわけで、何もせずにそれを嘆くのはお門違いだと思う。

 

コミュニケーションスキルというと、何やら大勢とワイワイ楽しくお喋りするスキルのように言われることがある。

それも紛れもない技術ではある。

話すタイミング、テンポ、声のトーンや抑揚、身振り手振り、話の内容の構築の仕方、それらの要素の集積が「楽しくお喋りするスキル」である。

これらはデータベースを構築するより遥かに得意不得意が大きく影響する。

野球選手が皆、イチローになれるわけではないのと同じである。

しかし単に人と接し、あるいは観察して、「こういうことを考えている人が多いな」、「こうしてあげると喜ぶ人が多いな」とデータを集めること、また一歩進んで「こういうタイプの人は特にこうだな」、「こういうタイプの人は例外的にこうだな」とデータ整理をすることは、やろうと思えば誰でもできることだと思う。

積み上がっていくものなので、すぐに急激に改善されるものではないが、一度積み上がってしまえば大きく崩れたりするものでもないので後々楽である。

 

私自身をそのデータベースに入れるとしたら、相当特異なカテゴライズをしなければならないように思う。

いわゆる「めんどくさい人間」である。

しかしその自覚があるから、私が他人と接するときは自分の「こうしたい」より相手の「こうしてほしい」を選ぶようにしている。

まるで「正解当てゲーム」である。

「適切」な選択肢を選ぶ自分を斜め上から見下ろすような気持ちになる。

それによって相手が感激するようなことがあったとしても、それは私の感情から発せられたなにがしかではないのでついていけず、相手の感情との間に溝が生じることになる。

その溝が、ときに孤独を深めることにもなる。

相手の正解を選ぶほど、それにより好ましい人物と思われて周りに人が集まるほど、より孤独は深くなる。

だから正解ばかり選ぶこともまた正解ではないのだが、それはまた別のお話。

 

そういえば恋愛に興味がなかった若い頃(いまでも大して興味はないが)、「恋愛におけるコミュニケーションと普段のコミュニケーションは違う。だから食わず嫌いせずに恋愛してみなさい」的な諭され方をされたことがあったが、実際に異性と交際して思ったことは、何も違わないということだった。

人間と人間との間での話には違いないのだから、当たり前といえば当たり前である。

おそらく、多くの人にとって同性より異性のデータベースの方が乏しいこと、恋愛という非常時において冷静な選択ができないことが、上記のような諭され方をする原因と思われる。

しかしやはりこうして一歩引いて考える人の方が稀であることを考えると、上記のような諭され方は概ね正しくて、つまりは私が変わり者だということになってしまうのかもしれない。

詮無い話。