異呆人

ノンフェータルなペシミズム

死ぬ権利

常々このブログには記しているが、私は死ぬということをおそらく多くの人ほどネガティブには捉えていない。

もちろんあらゆる可能性を失うという意味で、死は人生で最も忌避すべきイベントではあるのだが、死そのものはそれほど大きな苦痛を伴うものではないだろう。

苦痛を伴うとしたらそれは死に至るまでの道程においてであって、つまり安楽死などであれば文字通り楽に死ねる。

死ねばあらゆる喜楽を得る機会を失うわけだが、逆にあらゆる苦悩からも解放される。

つまり死をどれだけネガティブに捉えるかということは、人生に対してどれだけポジティブかということとほぼ同じである。

死ぬ方が楽だと思えるほど辛い人生というのも理解するし、生まれて来なければ良かったと思う心情も理解するから、死んで救われる人だっていると思っている。

どんなことがあっても生きていた方がいいというのは、生きていて良かったと思える人の意見であり、それは結局はその人個人のサンプルでしかない。

むしろ積極的に意見発信するのがそういう人たちなのだから、死んだ方がマシと思っている人たちの意見というのはなかなか社会の表層に上がって来ない。

まして死んで良かったと思う人たちの意見など聞きようがない。

もちろんそれでも人が生物である以上は生きようとする。

「死にたい、死にたい」と言いながら生きている人がいるとしたら、ある意味それは至極真っ当である。

人間は簡単に死んでしまうが、簡単には死ねない。

自ら死を選ぶというのは防衛本能の働かない正常でない状態である。

自死するような状態というのは病である。

死に至る病」と言われたりするが、人を死に至らしめるものこそ病なのではないかと思う。

 

もし自分が治る見込みのない病にあったとしたら、安楽死したいなと思う。

周りがどう思うかとか一切抜きにすれば。

不要な延命措置というのは社会的にも身近な人たちにとっても大きなコストである。

命というのはそういうものではないという理屈もわかるが、むしろそういう理屈で思考停止しているからこそ、別のところで社会的な歪みを生むことになってしまっているのではないだろうか。

どんなに延命しても永遠に生きられるわけではない。

心情的なものを抜いてしまえば、それは健常な人であっても同じで、遅いか早いかの違いでしかない。

もちろん、自分が大切に思う人、自分を大切に思ってくれる人と少しでも長く時間を共有したいと思うことは悪いことではない。

それは所詮考え方の違いだと思うし、そういった考え方において相容れないことが悪いことだとも思わない。

結局は様々な状況において「死にたい」と思う人も、「少しでも長く生きた方がいい」と思う人も、自分の状況と周囲の気持ちとを最大限に慮った上での結論だと思うのである。

他人から見れば軽々に下されたように見える決断も本人にとっては熟慮の末だということもある。

どこまで考えられるかということも含めて、当人の能力、そのキャパシティの問題ということもあるし、それはつまり努力だけでどうこうできるものではない部分もあるので、多少の至らなさも含めて本来その決断は許容されるべきものなのだろう。

 

仮に自分の妻や子が自死という選択をしたとして、私はその選択を最大限に尊重すると思う。

心情的に「もっとああしてあげていれば」と思うことはあるかもしれないが。

しかし、本当はそういった思考そのものがおこがましいのではないかと思う。

後悔するようなことがあるとして、それはまさに「後悔先に立たず」と言われるようなことなのである。

どうにもできなかった過去も含めて、その人のキャパシティなのである。

そんな後悔を抱く人は、もしその記憶を持たなければ100回同じ場面に遭遇したら100回同じことを繰り返す。

人生というのはそういう必然の繰り返しである。

だからできることは、過去を背負って生きていくことしかない。

それと今できる限りをすること、やり残さないこと、つまり後悔の可能性まで考えて最善を尽くすことである。

そうであるなら、それでも避けられない、その必然のもたらす環境の中でなされた選択というのは、それが重いものであればあるほど最大限に尊重されるべきなのではないだろうか。

まあいずれにせよ、人が死んだ後の講釈というのは生きてる人間の都合の良いようになされるものでしかない。

死者への手向けというのは、生きている人間が生きている人間のために、死を受け入れ納得するためにすることである。

個人的には自分を責める方が、ただその事実を静かに受け止めて背負うより楽だと思える。

 

死ぬこと、翻って生きることというのは、とかく重大事として語られがちである。

しかし表裏一体のそれらの境界は淡いし、それゆえ実はどちらでも大したことではないのではないかと思う。

生きることも、死ぬことも、大したことではない。

自然の帰結として、どちらかに転ぶだけではないか。

そうでなければ、意識も芽生えない頃に失くなる命や、無念のうちに消える命、あるいはどうしたって救われない人生そのものの価値を、そうでないものと比べて低く見ることになるのではないか。

突き詰めればどうしようもないものなのだから、無理にどうにか意義や意味をつけなくたっていいのではないかと思うのである。

全部0なのだから等価なのである。

そんな考え方が正しいかどうかはさておいて、少なくともそういう議論をタブーとして遠ざけること、有耶無耶のうちに見なかったことにすることこそ、生に対しても死に対しても最も重大な冒涜であると思う。