異呆人

ノンフェータルなペシミズム

止まった時間の中で

残った数少ない担当取引先を後輩に引き継いでいるとき、先方の社長から「うちを担当してもらってどれくらいになりますかね」と言われた。

「5,6年くらいになりますかね」と私はなんとなくの計算で答えた。
わりと営業担当の入れ替わりの激しい業界で、5,6年担当が変わらないというのはそこそこ長い。
幸い先方は私の対応を評価してくれていたらしく、担当変更にあたって餞別までいただいた。
これまで会社は変われどずっと営業マンとして職業人生活を送ってきて、そういったことは少なくなかったが、そういう評価は何度いただいても冥利に尽きるというか、素直に嬉しいものである。
 
さておき、席上、私はどんぶり勘定で5,6年と答えたが、正確には丸6年、つまり7年目に入っていた。
そもそも中途で今の会社に入って今年で丸7年、8年目になる。
辞めずに勤め続ければ自然とそうなるのだろうが、私は2度転職していてわりと落ち着きのない職業人生活を送っていたので、もうそれだけ時が経ったのかという感慨がある。
というか、厳密にはそれだけ時が経ったという感覚がない。
ちょうど先月、新しく親会社から来た担当役員と面談したときも「君はこの会社に来て何年になるの?」と聞かれて即答できなかった。
まぁ実際、自分が何年その仕事をしているか意識している人も少ないのかもしれない。
ただ私の場合、単に経験年数が答えられないというだけでなく、実際それだけの年月が過ぎているという感覚がないのである。
数年前の仕事もついこの前やったことのように感じるし、冷静に計算すればわかることも全部一緒くたに「2,3年前」とか「5,6年前」という感覚の枠に収まっている。
それはあっという間に過ぎたというわけではなく、それだけ中身が伴っていなかったというわけでもない。
まるで時が止まっているというか、サザエさんドラえもん的に進んでいるのに止まっているというか、ループしているというか、そんな感覚がある。
 
これは年齢についても同じようなことが言える。
さすがに30歳を超えたときは三十路だなんだと感慨も湧いたが、そこからは時計の針が進んだ感覚がない。
いつまでも30をちょっと過ぎただけのような気がしていて、先日誕生日を迎えて自分の年齢を改めて確認したときに奇妙な感じがした。
さすがに見た目が急変する年齢でもないし、体力の低下はあってもそこまで身体を酷使するようなことはしていないので、実感が少ないのかもしれない。
まぁ気が若いと言えなくもないのかもしれないが、もともと年寄りみたいな雰囲気を醸し出しているので年齢が追いついてきただけである。
いや、むしろまったくの他人から見れば年齢不詳な感じなのかもしれない。

先日、そんな感覚があることを同僚に吐露し、「なんでだろうね」となって改めて考えてみたのだが、それはきっと私自身が成長していないからではないだろうか、と思い至った。
時間とは目に見えないもので、私は実体のある何かだと思っていない。
時間は概念であり、実際には存在しないものだと思っている。
変化の共通の尺度として時間という概念を持ち出すと非常に物事を理解しやすいというだけである。
だからもし万象一切変化しない空間があるなら、そこには時間は存在しない。
何も変化しない中で時間だけが刻々と過ぎていくということはないだろう。
歳をとるほど時間感覚があやふやになっていくのは、それだけ人生の起伏が少なくなるからだと思う。
変化がなく十年一日とは言わないまでも同じような日々を過ごしていると、平成が令和になるくらいの大騒ぎでもしない限りは感覚なんて湧かないのではないか。

もちろん私の身辺には十分過ぎるほどの変化があるのだが、それは私自身が変化しているわけではない。
内面の変化、あるいは人間的成長を伴っていない。
妹のひまわりが生まれても5歳児のままであるクレヨンしんちゃんみたいなものである。
結婚生活も子育ても仕事上の変化も新しい趣味も、オプション的に私のアビリティが追加されていくだけで、いわば今持っている引き出しの延長線上で対処できてしまっている。
時間や労力などの物理的な制約でやり切れていないことは多いが、何か難しいことをしているという感覚、自分の中の何かが拡張されていくような感覚、成長の実感がない。
むしろ普段50〜70%くらいの出力でゆるゆる生きていたところが、100%の出力を求められる機会が増えただけな気がする。

もう少し若ければ、手持ちのカードだけで対応できてしまうことは退屈だと思ったかもしれない。
昔はトラブルでもいいから自分の予想を上回る事態が起きた方が面白いと思っていたくらいである。
だから環境を極端に変え、外からの刺激を自分に与え続けてきた。
そうすることで未知に対する適応力が身について、自分自身がアップデートされていくような感覚を得ることができた。
今はもうそんなことはしない。
そこまであれこれと手を出しても結局心底面白いと思えるものには巡り合わなかったし、段々と刺激に対する閾値が上がって成長の実感を得ることが難しくなっているとも感じていた。
私自身の力ではもうどうにもならない、環境を獲得する力が足りないとも感じた。
実力不足。
ある意味では主体的に自分自身を成長させよう、もっと上に伸びようという、階段のようなものを上ることをやめたと言える。

それでも、今の自分のいるステージで誰かの役に立つことはできる。
余った時間を、退屈を、誰かの実に変えることはできる。
大きなものをと手を広げる必要はない。
手の届くところだけでも守れればいい。
それが自分にとって何か+αにならないようなものであっても構わない。
自分が止まっていても周りが進んでくれるなら十二分である。
それこそ、子供の成長をただ見守っているだけでも十分なのだろう。
まぁそこまで含めてまだ描いた絵の中。
きっとそんな予想をなぞっているうちはずっと止まったままなのだが。

まあ放っておいても、もう10年くらい経てば自然と歳をとったと感慨を得られるだろうけど。
いや、むしろそれだけ経ってもまだ若いつもりでいる方が余程怖い。
個人的には気が若いというのはあまり良いことではないと思っている。
やはり歳を重ねたら重ねたなりの良さというのがあると思うのである。
「相応」という認識を自他ともに持たれるくらいがちょうどいいと思っている。