異呆人

ノンフェータルなペシミズム

「死ねない」と「死にたくない」

かれこれ1ヵ月ほど取引先の訪問ができていなかったのだが、先日久しぶりに出張することになった。

ただし内容が後輩の問題対応についての謝罪なので、あまりありがたい用事ではない。

まぁ、それはいいとして。

ついでなので、近くで書類だけ貰わないといけない取引先もあったので、そちらも訪問しようと思っていた。

ところが前日になって先方から会えないと連絡があった。

リスケはよくある話なのだが、これでは私はただ謝りに行くだけになってしまう。

しかも午前中のアポだから、午後から丸切り暇になる。

それはそれでのんびりしてもいいのだが、いかんせん仕事の状況がそんなことをしていられないほど忙しい。

なので用件を終えたあと出張先から会社に戻り、仕事をして帰ることにした。

妻には夕飯を食べられるくらいの時間には戻ると言っていたが、前言撤回である。

会社に戻って仕事をしたら、また夕飯は電車内でおにぎりだろう。

 

そのことを妻に話したら、「たまには早く帰っちゃってもいいんじゃないの?普段遅いんだし、差し引きゼロだよ」と言われた。

言っていることはわからないでもない。

ただ早く帰ると言っても終業時間前に家に着いてしまうのはどうかと思うし、普段遅くまで仕事をしてると言っても残業代はきっちり請求する。

差し引きはゼロにならない。

そう言うと「倒れないか心配」と言われた。

心配してくれるのはありがたい話である。

ただ残念ながら、私は倒れない。

これで倒れるようなら、これまでの人生のどこかですでに倒れている。

先日も書いたが、無駄に丈夫なのである。

倒れた方が楽だとか、発狂した方が楽だと思うような状況は人並みに経験してきているが、実際にそうはならないのだから、たぶん今後もそんなシチュエーションは訪れないだろうと思っている。

 

じゃあ、うっかり倒れてそのまま帰らぬ人になったとしたら。

そんな状況を想像してみたが、不思議と何の感慨も湧かなかった。

結婚したら変わるかと思っていたが変わらず、子供が生まれたら変わるかと思っていたが変わらなかった。

少なくとも今のところは。

子供は可愛いし、成長を見守るのは楽しいし、出来るだけ長く見守っていたいとは思う。

ただ、それとこれとは別の話というか、たぶん死ぬときはホッとするような、肩の荷が降りるような感慨を持つのだろうと思う。

いろんなものを背負って簡単に死ねないなとは思うが、それは死にたくないということではない。

むしろしがらみというか、煩わしさというか、そういうものから解放されること、とにかくもう考えなくても済むということに、喜びさえ覚えるのではないかと思う。

ずっと消えないニュートラルな「死にたい」。

それはやはり今も変わらない。

 

少し変わったことがあるとすれば、それはそんな自分であることに申し訳なさを感じるということだろうか。

自分がいなくなることで、これまでよりも、もっと直接的かつ大規模な影響を与える相手がいる。

そんな状況であるのにポジティブに生きていたいと思えないことへの軽い自己嫌悪。

私が考える自分の存在の重みと、他人が考える自分の存在の重みとに乖離が生じていく。

それが大きくなる。

確かに私は他人に利益をもたらしもするし、好意からそうしている面もあるが、それよりは遥かに合理性と義務感、あるいは信念から他者に親切なだけである。

合理的で義理堅いかもしれないが善良ではない。

もたらす結果は同じかもしれないが、思考のプロセスは異なる。

本当に善良な人を知るからこそ、自分がそうでないことはわかる。

だから申し訳なさを感じる。

すべてを捨てて消え去りたいという願望は消えないから。


夫だから妻を大切にし、親だから子を大切にする。

友人だから大切にし、同僚だから大切にする。

私はその因果を超えて何かを大切にしたいと思うだろうか。

しょうもないことを考えると疲れるな。

ただでさえ仕事が忙しいのに。

今は苦いものを味わっている余裕はない。

ときに目を瞑って鼻を摘んで飲み下す処世術も必要。

最近はスマホで少しずつ記事を書き継ぐことしかできないから、記事を書き始めたのはしばらく前なのにいつの間にか4/1になっていた。

今日は新元号が発表されるし、新生活が始まる人がたくさんいるのだろう。

多くの人の新しい道のりが穏やかで健やかなものになればいい。

私はまだしばらく、現実世界をサーフィンだな。