異呆人

ノンフェータルなペシミズム

何も載っていない皿こそ究極の料理

 

 「変わり者」だとよく言われる。

これは付き合いにくい人間だというわけではない。

私と接する人の第一印象は、概ね「親しみやすい」とか「穏やか」だとかいったものである。

ただ少し踏み込んで付き合うと、私の考え方とか判断基準とか物事の受け止め方とかがズレていることに気づくらしい。

だから私との付き合いが深くなるほどに「人当たりのいい人」→「ちょっと変わった人」→「変人」と評価が変わっていく。

周囲の人の評価がすべからくそうなのだから、たぶんそれが客観的な評価でもあるのだと思う。

私自身、その評価を否定するつもりはない。

確かに私の価値観などは、世の中の平均とはかけ離れているとは思う。

 

ただ、その「変わっている」ことをして、「闇を抱えている人」のように言われることがあるのだが、それは少し違うなと思う。

私は別に闇など抱えていない。

「闇」と例えられるような負の感情を常時持っているわけではないし、特別な暗い過去があるわけでもない。

生まれつき持っている何かが他人と大きく違うわけでもない。

あえて言うなら、私が抱えているのは虚無である。

 

それは生きることの意味や価値を、演繹的に延々と考え続けた結果の哲学である。

個別の事情を排除して、一般的、客観的に生きるということにどういう意味が見出せるのか。

そういうことを毎日のように考え続けていた時期があって、いわばそこから得られた「無意味と無価値」という結論が私の生き方の根本にある。

根っこが違うから、枝葉としての行動や発言が変わってくる。

それが他人には奇異に映るのだと思う。 

私は、その結論自体は特別なものではないと思っている。

誰もが同じ問いに真摯に向き合うなら、同じ結論に至ると思っている。

ただ実際にそんなことばかり十数年ずっと考え続ける人があまりいないだけだと思う。

 

それはいわばシチューを煮込むような行為だと思っている。

じっくりコトコト弱火で煮込むように考える。

煮込めば煮込むほど美味しいと考えてどんどん煮詰めていく。

その結果、水分がすべて蒸発して、具材すら焦げ付いて、最後には焦げ付いた塵すら残らないようになる。

そんな空っぽの鍋に真理を見出すような感じ。

何も料理の載っていない皿を出し、「これこそが究極の料理です!」というような哲学が私の軸だと言える。

そんなもの、海原雄山だって目を点にするだろうが。

 

 

私は自分自身が他人から理解されづらい人間だと思っているが、それは他人からすれば、いきなり何も載っていない皿を料理として提供されるようなものだからだと思っている。

人間というのは誰しもアップデートされた最新型であり、その時点でのその人の結論を体現しているものである。

逆に言えば、その人の歩んできた人生や思考の過程というのは基本的に見えない。

 

だから最新型が突飛であればあるほど、理解の及ばない人となってしまう。

私としては論理的に1つ1つ課題を解決していけば、「何も載っていない皿こそ究極の料理」という哲学も理解してもらえるものだとは思うのだが、十数年の思考をおいそれと伝えることができないので「理解されなくてもいいや」と匙を投げてしまう。

おそらく世の中で「変人」と言われる人の多くは、他人にとっては奇異なものでも、その人にとっては必然性をもってその形になっているのだろう。

きっとそのうちの多くが説明を諦めたり放棄してしまうから、より先鋭化して理解しづらい人となってしまうのではないかと思う。

 

まぁおそらく、本人たちは困っていないだろうが。

むしろ困るのは周りだが、そもそも周囲には「理解はできなくても受け入れられる人」しか残らない。

そういう意味では、尖った変人というのは案外本人は幸せに暮らせるものかもしれない。

「幸せかどうか」すら気にしない人も多いかもしれないけども。