異呆人

毒にも薬にもならない呟き

パラスポーツポスターへの批判について思うことから伸びていく思考

mainichi.jp

 

このニュースを見たとき、何のことかすぐにピンときた。

私は通勤時の乗換駅として東京駅を利用している。

しばらく前からパラスポーツのポスターが貼られているのも見ていた。

今回、批判の対象となったポスターを直接見たことはないが、他のポスターも同じようなテイストで作られている。

だから「あぁ、きっとあのポスターのどれかなんだな」と思ったのである。

今回のポスターについては選手本人のコメントを一部抜粋して作れらているのだが、実際のコメントの全文を読めば選手の言いたいことはきちんと伝わるし、特に問題があるとは感じない。

要は誤解を招くような抜粋の仕方をした製作者側に非があるわけで、それで即時撤去となったようである。

 

個人的には、今回東京駅で掲示されているポスターは好きだ。

批判の対象となったポスターは「障がい」という言葉が入っているので少し違うが、パッと見たときにパラスポーツのポスターと気づかないようなものもあったと記憶している。

パラスポーツの「パラ」の部分ではなく、「スポーツ」の部分に焦点を当てたようなものが多く見られた。

私は学校の部活動を中心にスポーツに長く取り組んできたが、パラスポーツにはあまり詳しくない。

だから実際どうなのか知らないが、たぶん一般的なアスリートもパラアスリートも競技に向き合う姿勢は同じくらい真剣なものなのだろう。

それでもパラスポーツを通常のスポーツと比べて一段下に見るような風潮は世の中にあると思う。

私の中にもある。

その姿勢にフォーカスしたようなポスターを見て、自分の中でパラスポーツを低く見るようなところがあったことに気づかされた。

だから素直に面白いポスターだなと思ったのである。

それが行き過ぎて批判を浴びたのであれば皮肉だなと思うが、それよりは単に語感を優先して文章を端折ったせいで起きた問題だと思うので、まあそういうこともあるわな、といった感じがする。

作っている側は元の文章(全文)が頭にあるので、自分の頭の中で意味を補足して読んでしまうのだろう。

 

さておき、障碍者への接し方は難しいなと思う。

それは具体的に何をどうすればいいかわからないからではなく、自分がしたことを相手がどう受け止めるかわからないからである。

可能な限りの配慮を求める人もいれば、可能な限り健常者と同じように接してほしいと思う人もいる。

こちらが良かれと思ってやったことで不快な思いをさせたり、逆に配慮が足りないと言われることもある。

いや、そんなことは障碍者に対してに限らず健常者に対しても同じことなので、つまり何をどうやったってうまくいかないときはうまくいかないのだと、半ば投げやりになってめんどくささを感じてしまう。

それは普段から人間関係からそうで、だから私は相手に自分の真意が伝わらずに嫌われてもいいくらいに思って生きている。

相手が障碍者でも同じである。

つまり私はほとんど障碍者に対して健常者と同じように接していると言えるかもしれない。

 

まぁ「健常者」と言っても、何が「健常」なのかよくわからない。

それは何をもって「普通」と言うのか、と同じ問題である。

一般的には「日常生活を支障なく送れること」などと言われたりするのかもしれないが、そこで言う「日常生活」とはどこまでの範囲を指すのだろうか。

スポーツをすることは日常生活なのか、ディズニーランドに行って楽しむことは日常生活なのか。

そういったものを含めて障碍者が健常者と同じように生活できるようにすることをノーマライゼーションと言ったりするが、ノーマライゼーションが進むということは障碍がハンディキャップでなく特徴や個性として扱われるということにならないだろうか。

そういう意味では、「障がいは言い訳」になる社会が理想的なのではないかと思えなくもない。

とかなんとか、ぐるぐる考えていた。

 

人間それぞれ多種多様で、いろんなことが得意でいろんなことが苦手だったりできなかったりする。

そういう意味では皆なんらか「支障」になるようなものを抱えていて、なんとかうまく合わせたり、合わなくてはじかれたりして、生きているのだろう。

むしろ「生きづらさ」を感じたことのある人の方が多いのではないだろうか。

皆が「普通」から外れたものを持っていて、そのベクトルが違うだけのような気がする。

まぁ、それでも自分は「普通」だと思っている人がいたり、逆に自分だけが「異常」だと思ってしまう人がいたりして、人間ってめんどくさいなと思うのである。

自分も含めて。