異呆人

毒にも薬にもならない呟き

米から食べてスミマセン

先日、妻と食事をしていて、私が米ばかり先に食うことを指摘された。

厳密に言えば、主菜と一緒に先に米を食べきってしまう。

これは育ちのせいである。

私の実家は兄弟が多く、食費がかさんだ。

なので母は育ち盛りの子どもの腹を膨らすために、とにかく米を食わせた。

白米が貴重だった時代ならともかく、現代において米は主菜や副菜より安価である。

だからオカズは少ないのに、米は茶碗に山と盛られる。

私はもともと少食で、腹にたまるクセに味の淡白な白米があまり好きではなかった。

だからオカズが残っているうちに米を食べてしまわないと、米だけが大量に残って食べられなくなり親に叱られる。

それでそんな食べ方が身についた。

 

ついでに野菜もあまり好きではない。

特に千切りキャベツ。

新鮮で良いキャベツは確かに甘いのだが、冷蔵庫で少し日にちの経ったキャベツなどはすぐにエグ味が出る。

ドレッシングを大量にかけて誤魔化すこともできるが、キャベツだけ残るととても辛い。

だからトンカツ定食などの場合、カツの残っているうちに米とキャベツを片付けることが求められる。

カツが先になくなるか、米とキャベツが先になくなるか、ギリギリのせめぎ合いである。

 

それから私は食事中に水を飲まない。

これも少食だったせいで、食事中に水を飲むと腹が膨れて食事が最後まで食べられなくなるからである。

味噌汁も最後まで手をつけないことが多い。

すっかり冷めてしまうのだが、猫舌の私にはちょうどよい。

ただし味噌汁をオカズだと思っている妻は、よく具沢山の汁物を作る。

これは具だけ熱いうちに食べてしまわないと、最後に冷めてしまったときにかなり不味くなる。

だから汁だけ残して食べる。

あとこれは性分なのだが、一つの皿を空けてしまわないと次の皿に移る気がしない。

中途半端に手をつけた状態で次のことに移るのが気持ち悪く感じるのである。

これは食事に限らず、普段の生活の多くのことが。

だから「三角食べ」ができない。

飲み屋に行っても、付き出しを食べ切らないと皿の料理に手をつけなかったりする。

ある意味、奇人かもしれない。

 

米だけ先に食べることについて回答するついでに、私は自分の中の食べる順番について妻に説明した。

妻も毎食最後まで味噌汁に手をつけない夫に疑問を持っていたようで納得したようだったが、「いつもそんなこと考えながら食べてるの?」と聞かれた。

まぁ本当に考えながら食べているわけではないが、私の行動や選択の背後には一応それなりの意味というか考えがある。

別に食事に限らない。

何をどうするのが効率的か、より良くなるか、とか考えながら生きている。

歯を磨くときは、右手で歯を磨きながら左手で何ができるか考えている。

朝の支度などのルーティンについては、起き抜けの頭が回らない状態でも身体が動くように順番を決めている。

その順番一つ一つも、熟慮した上で構成されている。

あるいは、私は仕事中に車内で昼食をとることになるときが多いのだが、狭いスペースでも食べやすい細長いスティック型のパンをよく食べる。

メロンパンなどはカスがこぼれ落ちやすいし、コンビニの三角形のおにぎりも封を開けたときに海苔が飛び散るのでNGである。

そんな話を同僚にしたら、「そんなこと考えて食べるもの選んでるの?」と笑われた。

いや、考えないかな、そういうこと。

私はそれが普通だと思っているが、他人の頭は覗けないのでどうなのかは知れない。

 
特に自分の行動の効率性というか、合理性みたいなものはわりと昔からよく考える。
失敗したくないというのもあるが、それ以上に時間がもったいないと感じてしまう。
最短ルートで、無駄がなく、不快なく、すべての物事を処理していたい。
中学生くらいのときからそうなのだが、自分の人生の時間が限られているということへの意識が強かった。
やりたいことはなかったが、いやなかったからこそ、それを見つけてから走り出し、目標とする地点に到達するまでを思い描いて、時間が足りないなと考えていた。
まして自分の人生がいつまで続くかという保証はない。
だから遊びでもなんでもいいから何かをしていたかったし、何かを考えていたかった。
つい効率性とか合理性とか考えてしまうのは、ある意味で生き急いでいた時期の名残のようなものである。
早く答えに辿り着きたくて走り回っていた。
その中で切り捨てたものもたくさんあったろうけど、それはそれで良かったというか、自分の生き方だったのかなと今は思える。
 
とりあえず、米から先に食べてスミマセン。
でも、直すつもりはないのでよろしく。