異呆人

毒にも薬にもならない呟き

消えない怒り

私は妻や知人から、人間ではないサイボーグか何かのような言われようをされるくらい、感情表現が控えめである。

それは意図的に感情表出を抑えるように心掛けていた過去があるからで、生まれつきというよりは後天的に獲得した能力のようなものだと言える。
それが良かったのかどうかはわからないが、望んで手に入れたものだし後悔はない。
嬉しいとか楽しいというのもあまりそう見えないらしいし、悲しいとか寂しいにいたっては、最早自分自身がそう感じること自体がほとんどない。
しかし最近思うのは、「怒り」だけは昔より強く感じるようになっているし、表出することを躊躇わなくなったなということである。
怒る頻度が増えているわけではないので、怒りっぽくなったのではないと思う。
怒りを認識しながら、それを止めないことが増えたような感じである。
散歩中の犬のリードを手放すような感じ。
「好きなようにしな」と、諦念とともにリリースする。
 
少し追いかけて考えると、私は世の中が嫌いなのだと思う。
良いところもたくさんあることを踏まえて、それでも根っこのところで嫌いなのだと思う。
私が嫌いなところはどうしようもないものなのだとわかっていて、だから普段から怒るわけではないし、極端に厭世的な態度はあまり表さなくなってきたのだが、それでもやはり嫌いなのだと思う。
できれば生きていたくないというのは、理屈というより感情なのかもしれない。
本当の好きとか嫌いは理屈では割り切れない。
理屈で考えるなら、遅かれ早かれ死ぬのだから、別に死に急ぐほどの理由は私にはない。
 
理不尽だよなと思う。
めんどくさいなと思う。
自分も含めて、人間というのは、あるいは人間以外の動物も含めて、エゴイスティックだと思う。
「ああしたい、こうしたい」、「ああしてほしい、こうしてほしい」。
そういうものをぶつけ合って、生きていくのである。
理に適っていると思えば要求を飲むし、間違っていると思えば戦うのだが、もうそんなこと自体がめんどくさくなって、「いいよ、好きにしろよ、私は一抜けるから」と言って、手に持っている何かを地面に叩きつけたくなるのである。
わかりづらいかもしれないけど、そんな感じ。
 
このブログはハナから歯に衣着せるつもりはないので余計にそうだが、普段の生活でも私はわりと思ったことをストレートに物申す方である。
良い意味でも悪い意味でもあるのだろうが、正論を吐く。
まぁ正直、あまり良い意味で捉えられることはなく、「お前の言ってることは正論なんだけどな」的にたしなめられることの方が多い。
わかってはいる。
理屈の上で正しいことがすべてではないし、論理的に整合性が取れていることがすべて実現するほど、世の中は筋道立って出来てはいない。
しかし、「正論」が半ば小馬鹿にされたり、「正論」を主張することが鼻白まれるような風潮ってどうなのだろうか。
その「正論」の中身について議論されるならともかく、そういうことを主張すること自体が物議をかもすことは何か違う気がする。
たぶん、ここ最近多方面で感じる自分の中の怒りのボルテージの高まりは、概ねそういうところにあると思う。
 
「アンガーコントロール」というのが少し前に流行ってたと思うのだが、怒りをコントロールすることはさほど難しくないと思う。
むしろ、あらゆる感情の中で怒りはコントロールしやすい方だと思う。
ただ怒りをコントロールしてしまうことが、同時にそれを感じる際の理不尽だとかをうやむやにしてしまったり、周りの空気に丸め込まれるようになってしまったりするのは、果たして妥当なことなのだろうかと思うのである。
「それは違う」と思うなら、「違う」と言えばいい。
議論することは勝ち負けをつけることではなく、お互いの主張の妥協点を探ることである。
ただ議論そのものを避けて、「またあいつはあんなこと言って」みたいに空気で否定されるのがどうも納得できない。
 
合理主義で個人主義で議論を避けないのは、どうも性分らしい。
そう言えば、小学生の頃に学校の先生から、「君みたいな子は日本では生きづらいかもね」と言われたことがあった。
あれはどんなシーンで言われたのだったか。
当時は深く考えなかったというか、個性的だねと褒められたくらいに思っていたかもしれない。
というか、小学生にそんな言葉を投げかけるってどうなんだろうと、今にして思う。
なんか話が横道に逸れだした気がするけど、とりあえず地味なストレスが積もり積もる今日この頃。