異呆人

毒にも薬にもならない呟き

いくつになっても甲子園はいいと思う

今年の甲子園は秋田の金足農業の話題で持ちきりだった、と言っても過言ではないだろう。

決勝では敗れたものの、公立の農業高校が甲子園の決勝まで駒を進めるというドラマは、多くの人の心を動かしたようである。

私も素直に「すごいなぁ」と感動した。

野球は小学生の頃にソフトボールをやっていたくらいで、プロ野球も今は結果しか見ない程度だが、それでも甲子園は見ていて面白いと思う。

スポーツをやってきたからかもしれない。

負けたら終わりのトーナメントで、1つでも上を目指す高校生のひたむきさは、あの時期にしかないものだと思う。

まぁ、金足農業ばかり応援される世の判官贔屓の風潮を批判する向きもあるようだが、応援なんていうものは応援したい方を応援すればいいのである。

何か理由や理屈がなければ応援してはいけない、というわけではあるまい。

もちろん、応援したくなる要素満載の金足農業を応援することと、野球エリートの集団とも言える大阪桐蔭を批判することは違う。

彼らもまた、立派にプレーした高校球児たちの集団の一つである。

 

甲子園って、人生の縮図みたいだな、とぼんやり思った。

それぞれに学校によって、練習する環境、集まった選手のレベルというのはまちまちである。

弱いチームもあれば強いチームもあるし、整った環境で練習に打ち込める強豪校もあれば、いろんな制約の中で工夫と努力を重ねることになる学校もある。

それでもいざ試合となれば、そんな環境や選手の能力に関わらず、同じルールの下に試合うのである。

弱いから、練習環境に恵まれないから、といってハンディキャップが得られるわけではない。

だからこそ、金足農業みたいなチームを応援したくなるとも言える。

 

人の一生だって、恵まれた環境に生まれる人もいればそうでない人もいるし、能力に恵まれる人もいればそうでない人もいる。

身体に不自由があることもあれば、ロクでもない親のもとに生まれることだってあるだろう。

それでもいざ生きるとなれば、そんなことお構いなしに同じ世界で生きていかなければならないのである。

人間社会のシステム自体は多少「弱者」に優しいようにできているが、世の理りはそれ以上に無慈悲で、ある意味平等である。

与えられた環境や能力の範囲で、工夫と努力を重ねるしかない。

 

私がいくつになっても甲子園を見ていていいなと思うのは、清々しいまでの「ひたむきさ」にある。

甲子園で早々に敗退したチームや、あるいは予選会で負けるようなチームだって、最初から負けてもいいと思って試合に臨むチームはほとんどないだろう。

明らかに間に合わないと思われるような場面でもヘッドスライディングするし、負ければ大敗だろうが惜敗だろうが涙を流す。

それは、それだけ真剣に野球と向き合っている証拠ともとれる。

人生だって「応援したい」と思えるのは、やはり自分の生と真剣に向き合い、ひたむきに努力を重ねられる人である。

もちろん野球でいう「勝ち負け」はまた別問題だが、そういう姿勢そのものが人の心を打つし、味方を作るのだと思う。

 

まぁ、私自身はひたむきに努力するというタイプではない。

必要とあらば逃げるし、諦めるのはそれ以上に早い。

そもそも「勝ち負け」で言うなら、勝つつもりがない。

人に応援してもらおうというつもりもない。

いやだからこそ、自分にないものを持っているという点で、高校球児などには「すごいなぁ」と感動するし、応援したくなるのである。

 

さておき、甲子園が終わり、夏も少しずつ終わりに近づいている感がある。

少し涼しくなったかと思えば、またぶり返すように暑くなっているが、それでも日は少しずつ短くなっているし、日差しにも夏真っ盛りの力強さはない気がする。

「平成最後の夏」などとセンチメンタルなフレーズが流行っているが、別に「平成最後」でなくても今年の夏は今年きり、もう二度とやってこない。

毎日毎日だって、「今日」という日は二度とこない。

なんだかやらなければならないことに追われて夏が終わっていく気がするのだが、負けたら終わりの高校球児たちと同じように、「次はない」くらいの気持ちがもう少し必要だなと思う今日この頃である。