異呆人

毒にも薬にもならない呟き

人生のマルとバツ

妻を置いて帰省したので、久しぶりに地元の友人と会う時間ができた。

といっても、昼飯を一緒に食べただけで、食べながら1時間半ほど近況報告した程度である。

地元に帰るとき、時間が取れそうなら連絡することにしている。

昔、実家に帰っているのにそれを告げなかったら、怒られたことがあった。 

そう言ってくれることがありがたいなと思ったので、以来、できるだけ時間を融通するようにしている。

もう少し時間があれば、夜飲みに行ったり、ゲームなどして遊んだりするのだが、それぞれに仕事の忙しい年齢になってきているのでなかなか難しい。

会えるだけで良い方だろう。

 

仕事を辞めて専門学校に通い直している者、サラリーマンを辞めて家業を継ぐことにした者、同じ会社で勤め続けている者、それに不満のある者、ない者。

人それぞれ状況は異なる。

私の周りでは1つの職場で勤め上げるような人は比較的少なく、半分以上の人が転職している。

それも似たような会社に勤めたり、似たような仕事をするのでなく、思い切り違う業種に変えたり、学校に入り直すような人が多い。

「思い切ったな」と感心することもあれば、「それ、大丈夫か?」と心配になるようなこともある。

まぁ一度きりの人生、好きに生きたらいいと思う。

もちろん、その結果を引き受けるという責任付きではある。

 

選んだ道が良い結果に続くか悪い結果に続くか、そんなことは所詮結果論であり、どれだけ分の悪い勝負であっても勝てば官軍だし、安全だと思われた道でも落とし穴に嵌れば失敗者と見なされてしまうこともある。

事前の下調べや準備をするに越したことはないが、それは何かを保証するものではなく、少しばかり確率を上下させたり、自分を安心させたりするだけでしかない。

だから簡単に、人の選んだ道にケチをつけるものではない。

変に褒めそやかすものでもない。

選ぶ権利も当然本人にしかないのだが、選んだ結果を引き受けることも本人にしかできない。

見守って応援する、転んだときに手を貸す、それくらいのことしかできないと思っている。

 

だから、というわけでもないが、仕事でもなんでも、私は過程を評価したいと思っている。

仕事においてはもちろん結果も求められるのだが、結果なんて所詮結果でしかない。

大切なことは、その結果を出すために何をどうしたかである。

その成功や失敗を、次にどう生かすかということである。

その積み重ねが、その人をより望ましい道に導いていくと思う。

勤め先が今月の初めにまた営業職を中途採用したので、盆休み前にいろいろと研修を行なっていた。

そのときにもできるだけ、1つ1つの作業の意味を伝えるようにしている。

「この作業にはどういう意味があるのか」、知らなくても作業自体はできる。

しかし意味を知らないと、違う結果が求められたときに過程をどう変えればいいかがわからない。

応用が利かない。

やり方を覚えるのではなく、過程そのものを吸収してほしいなと思う。

もちろん十分でないものや不要なものもあるのだが、スタンダードとして採用されているからには、それなりに洗練されたやり方ではあるはずなのだ。

成り立ちそのものに学ぶことは、自分が成り立ちを1から考えるときに役に立つ。

 

話は逸れたが、人生の転機を意図して作るときだって、同じようなものだと思う。

仕事を変えるなら仕事を変えるで、「何のために変えるか」、「最終的にどうありたいか」というビジョンがあるはずである。

そしてそのために必要なことをクリアしていく、その過程の積み重ねである。

その結果が失敗だったとしても、本当に必要なことをやれていたという自負があるなら、諦めもつくはずである。

逆に言えば、何となくで道を選ぶと思った方向と違う方に進んでしまうことも多いだろうし、運良くうまくいったとしても個人的にはあまり良い印象は持たない。

まぁ目的自体を持っていない、そしてそれを是としている私自身が言うことではないだろうが。

 

周りからするとなかなか結果しか見えないものだから、ついつい「どうなったか」だけでマルとかバツをつけたくなるのはわかる。

でもその過程がどうだったかまで見る、見えないなら推しはかるくらいはしたいものである。

友人たちの人生の軌跡を聞いていると、自分なりに考え、目標に向かって努力を重ねていてすごいなと思う。

その努力が報われるかどうかはわからないのが人生の不条理でもあるのだが、たとえうまくいかなかったとしても、少なくとも私はその過程を見ていたよ、と伝えられるような人間でありたいと思う。

それだけ。