異呆人

毒にも薬にもならない呟き

M君の思い出

時間が取れなくて、書きかけた記事を、すっかり干からびるほど放置していた。

消そうかと思ったが、8割くらい書いていたので、投下する。

書き出しに時間軸の違和感があるのは、そういうことだと思っていただきたい。

 

* * * * * * * *

梅雨はすっかり明けたというのに台風由来の豪雨が降りしきり、西日本の各地で大きな被害を出している。

多くの人々が命を失い、それ以上に多くの人が避難生活を強いられている現状を思うと遣る瀬無い。

亡くなった人、行方のわからない人の中には、若い人もいるようである。

老い先短いご老人だから死んでもいいかというとそうでもないが、やはり酸いも甘いもまだまだこれから知るであろう人たちが前途を失うのは、想像するに辛いものがある。

しかし、災害というのは突然訪れるもの。

事件や事故も、病もしかり。

人の命はいつどのように失われるかわからない。

私自身は毎日思い残すことなく生活しているし、いつ死んでもいいと思っているが、万人がそう思えるわけではないことは理解している。

 

若くして亡くなるというと、私は高校の部活の後輩のM君のことを思い出す。

彼は大学生のときに、実家の火事で命を落とした。

聞いた話によると、一度家から出ながら、家に残った猫を助けに戻ったそうである。

「バカだなぁ」と思うと同時に、彼らしいなとも思った。

自分らしく生きて、自分らしく死んだと言えるかもしれない。

私はもうそのとき地元を遠く離れたところに住んでいて、線香の一本もあげてやれていない。

まぁ弔い方というのは生きてる側の人間の問題なのだから、私が彼の死について自分なりに整理をつけられるなら、線香や弔花なんてあってもなくても同じであろう。

 

M君は私の1つ歳下だったが、部に入ってきたときから有名人だった。

というのも、私の1つ歳上に彼の兄がいたからである。

同じ学校の同じ部活に兄弟が所属することは、その道で知られたよほどの体育会系でもない限り、あまりないことだろう。

しかも陸上部にして、兄弟で同じ種目である。

あえて合わせたのか、たまたまなのか。

M君の兄はいじられキャラの面白い人だった。

「なあなあ、〇〇、聞いてや〜」と仲間に愚痴るのが口癖で、メガネで線の細い、味わいのあるキャラクターだった。

対して弟のM君は、兄と比べて筋肉質で気が強く、兄と比べられることを嫌がった。

まぁいじられキャラなのは兄弟同じで、M君は今でいう「キレキャラ」みたいな感じだった。

 

M君の学年には、F君という長距離種目でとても強い選手がいて、厳密には種目が違うのに、M君はやたら彼をライバル視していた。

1つ歳上の私は長距離のパート長で、彼らの練習メニューを作成する立場にあったのだが、F君だけは別メニューを与えていた。

そうでないと練習にならないくらい強いのである。

正直、公立高校の一学生が練習メニューを考えてあげるような相手ではない。

だから仕方ないのだが、M君はどうにもF君を特別扱いすることが認められなかったらしい。

噛んで含めるように説明して理解はしてくれるのだが、納得するかどうかはまた別の問題である。

 

だから私の代が引退するとき、次のパート長を誰にするかとても迷った。

代々、次のリーダーは上の学年が指名することになっている。

実力でいえば、F君がリーダーにふさわしい。

しかしF君はワンマンなところが少しあり、M君や他にも折り合いの悪い部員がいた。

そこでK君という別の子をパート長に指名したのだが、どうにもそれがうまくいかなかったらしい。

結局、K君はチームをまとめられず、F君が仕切るような形になり、M君は「なんでリーダーでもないのにお前が仕切るんだよ!」と反発するという、あまり良くない構図ができてしまった。

 

私は引退していたが、その内情を伝え聞き、少しの間、足繁く様子を見に行くことにした。

私が行くたび、M君は「ちょっと、朱天さん聞いてくださいよ!」と愚痴を言った。

(この言い方、兄に似てるなぁ)とか思いながら、私は彼をなだめた。

M君はわりと故障がちな選手で、よく更衣室の前で筋トレをしていた。

その補助をしながら、私は彼の愚痴を肯定するでもなく否定するでもなく、相槌を打ちながらただ聞く。

「まぁお前の言ってることもわからんではない。でもFにはFのやり方があって考え方がある。指図されることが腹立たしいかもしれんが、そこはお前が大人になってやれ」

などと、私はアドバイスにもならんような能書きを垂れる。

M君がどんな気持ちで私の話を聞いていたのかは知れない。

ただ、彼は私が顔を出すことを喜んでくれた。

 

大学に入るとM君は陸上競技を辞め、合気道か何かを始めていた。

私も彼もOB会には顔を出していたので、何度かそこで顔を合わせた。

それから私が沖縄にいるときに、その合気道の合宿で沖縄に行くので会えないかという連絡があった。

結局、M君が合宿を抜け出す暇がなく会えなかったが、連絡をくれたこと自体が嬉しかった。

確か、私がM君と連絡をとったのはそれが最後だったように思う。

 

私は翌年に就職し、新潟に転居した。

そしてその年、M君が亡くなったという知らせを受けた。

私は急に地元に帰ることもできず、通夜にも告別式にも参加できなかった。

伝え聞いた話によると、実家が火事にあったらしい。

M君は火の手が上がった家から一度は逃げ出しながら、飼い猫が中に残っていると言って戻ったそうだ。

そして、そのまま出てこなかった。

不謹慎かもしれないが、「らしいなぁ」と、私は思った。

高校生の頃、他の仲間とぶつかっていたのも、正義感のようなものだったのだろう。

そうであるなら、彼は、彼らしく生きて彼らしく死んだのだと思う。

 

自分の周りで、同年代の人が亡くなったというのは初めてだったので、当時はそれをどう消化すべきか考えた。

ショックを受けたわけではないし、難しく考えたわけでもない。

むしろ、そういう風にセンチメンタルに処理することが適当でないように思えた。

やはりどこまでいっても彼は私ではない別の人間で、また、死ぬということはそれ以上でも以下でもないことである。

「彼の分まで生きる」と考えることも、「彼を忘れないことが自分にできることだ」と考えることも、何か違う気がした。

「供養」というのは、生きている人間が死を受け止めるためにすることであって、死んだ人間のためにすることではない。

つまり特別なことを何もしないことが、私なりの「供養」だなと考えた。

私はこれからもきっかけがあれば彼のことを思い出すだろう。

まだ生きている他の友人と同じように。

そう考えると、結局は会えるか会えないかの違いなのだろうか。

まぁ、あまり深く考えても詮無いことかもしれないが。