異呆人

毒にも薬にもならない呟き

第二の故郷

久しぶりに沖縄に行くことになった。

今進めている新しい仕事の話のためである。

同僚との同行出張なので、自由に行動する時間はない。

遊ぶ時間はない。

まぁ、遊ぶつもりもないが。

私は大学の4年間をそこで過ごしている。

だから、もう十分に行きたいところには行った。

遊びたいという気持ちも湧かない。

現地の観光客向けではない定食屋で、沖縄料理でも食べられたら十分である。

 

沖縄の大学に行くことにしたことに大した意味はない。

当時は哲学を専攻したかった。

あまり親に学費を出させたくなかったので国公立が良かったし、同様の経済的な理由から浪人もしたくなかった。

当時の私の学力で現役合格がある程度見込め、哲学が専攻できる文学系統の学部がある国公立といえば、それほどたくさんはなかった。

その中で最も気候的に過ごしやすそうだったのが沖縄だったというだけである。

だから2次試験の面接で「なんでわざわざ沖縄まで来るの?」と聞かれたとき、素直に「暖かいからです」と答えたものだ。

今思えばとんでもない奴だが、まぁそんな学生を合格させた教授陣も肝が座っている。

 

実家を遠く離れ、誰も自分のことを知らない土地で生活したいという気持ちもあった。

高校生の頃の私は、中身的には今とほとんど変わっていない。

生き方、考え方、ポリシー、信念。

何と言ってもいいが、それはほとんどそのままである。

ただ、自分が頭の中だけで組み上げた理屈に、些か不安はあった。

自分には圧倒的に人生経験が足りないという自覚があった。

だから当時の自分が信じる通りに生きてみて、それが通用するのか知りたかった。

世間の風に当たれば心折れるような口先だけの甘ちゃんではないか、どこにでもいる頭でっかちな若造の1人ではないか。

それを確かめたかった。

生活力も必要だと思っていた。

生きる力といってもいいだろうか。

理屈がこねられても飯は食えない。

そういうこと。

 

実際、沖縄での一人暮らしは刺激的だった。

料理をしたり、洗濯をしたり、買い物をしたり、といった一人暮らしに必要な能力が養われるだけではない。

言葉が違う、文化が違う、気候が違う、食べ物が違う。

それを肌で触れ、受け容れ、吸収することの驚きと喜び。

なるほどこれが「経験する」ということか、と思った。

知っていることと知らないことの間には大きな隔絶があるが、触れたことのあることとないことの間にも大きな隔絶があるのだと知った。

情報や知識というのは切り取られたパーツである。

しかしその中には本来、文化的な背景と地続きに文脈の中で語られるものもあるのである。

沖縄で飲むオリオンビールと東京で飲むオリオンビールとでは味が違う気がするのと同じ理屈と言えばいいだろうか。

それが面白かった。

 

しかしそうやって新しいものに触れ、自分の中の何かが豊かになっていく一方で、自分自身というものが結局どこに行っても変わらないものなのだなということも思い知った。

良い意味でも悪い意味でも。

私の考え方は結局変わらなかった。

やはり自分にとって生きていく意味とか価値とかは見出せなかったし、その先の人生をポジティブに生きていくイメージも持てなかった。

そしてそんな考え方でもって虚無的に、一匹狼的に生きていても、気づいたら周りには人の輪ができていた。

地元を遠く離れて人間関係をリセットしたつもりでいたが、わざわざ訪ねてくる友人がたくさんいた。

新しい環境ではできるだけ人付き合いを避けて静かに生きていこうと思っていたが、放っておけなくて力を貸すことも多かったし、求められて前に立つこともたくさんあった。

結局、自分らしく生きていれば、どこにいて何をしていても同じような環境が自然と構築されるものだと知った。

環境を変えたって仕方ないのである。

自分を取り巻く環境を作っているのは、引きつけているのは自分自身なのだ。

周りの人を変えようが、住む場所を変えようが、自分自身が変わらなければ、それは同じことを繰り返すにすぎない。

 

私にとって沖縄という土地は、0からの新しい環境で自分自身を生き直してみて、自分というものの本質を確認させられた土地である。

いろんな思い出も思い入れもある第二の故郷のようなものである。

だから空港に降り立ち、亜熱帯の匂い立つような、蒸した空気を吸い込むと、とても感傷的な気持ちになる。

営業活動で久しぶりに街々を巡ると、思っていたよりずっといろんな景色を自分が覚えていた。

そして10年以上の歳月を経て、その景色も少しずつ変化していた。

それだけの月日の間に、私はどれだけ変われただろうか。

家庭を持ち、仕事もいろいろ経験し、置かれた状況は変わった。

それでもやはり本質はあの頃と変化していないなと感じる。

そう、こうやって抱く感傷がその証拠なのだ。

変われていないことを、見ないようにしている。

見えないフリをしている。

上手く振る舞えるようになったというだけなのだ。

まぁそれも大事なことではあるのだけれど。

さて、ノスタルジーで遊んでないで、仕事するかな。