異呆人

毒にも薬にもならない呟き

どこかの誰かの未来のために

最近いくつか大事な仕事をしている中で、「朱天さんは誰かのために何かするときの方が力が出る人ですね」と言われた。

そうだなと思う部分もあるし、違うなと思う部分もある。

半分正しくて、半分勘違い。

というのが、そう言われての素直な感想である。

 

私は普段、何事に対してもさほどヤル気がない。

というより、心底やりたいことがない。

私のやりたいことの多くは「時間があればやりたいこと」である。

ゲームしたいとか、身体を動かしたいとか、何か楽しいことをしたい、みたいな。

私は人生を壮大な暇潰しだと思っている。

与えられた時間を、いかに苦痛を少なく、快楽を多く享受して生きるか。

生きることにご大層な意味などない。

時間が巻き戻らずただ前にだけ進むように、水が高いところから低いところへ流れるように、生まれ落ちて死に向かって転がるのが人生だと思っている。

与えられた苦難にも、幸福にも、早い死にも、運命的な出会いにも、意味はない。

意味を見出したがるのは、無意味を受け入れたくない人の性である。

 

そう思っているから、何をしても、何をしなくても、私にとってそこに意味はなく大差がないのである。

私のやっていることは、生きるために必要なことか、不快を回避し快を享受するための作業である。

ただし、その作業自体に快があるならヤル気は出る。

私が誰かのために何かをするときにヤル気を見せるのは、私にとってそれ自体が快楽だからである。

私は人生に意味を認めないが、万人にとって人生が意味のないものだとは思っていない。

むしろ意味を見出すことが人の性なら、自分の生に意味や意義を見出そうとすることは、非常に人間らしい行為だと思う。

だからその意味や意義に基づいて生きようとする意志は尊いと思うし、むしろいつ死んでもいいなんて思っている私の人生は、そういった人たちのために使われるべきだと思っている。

だから私は、それが著しく私を不快にするものでなければ、喜んで私の時間と能力を他人に提供する。

そして私は他人から意味や意義を分けてもらう。

私にとって無駄なものが誰かにとって意味あるものに化ける瞬間、私は自己承認や効力感を得られる。

それが快である。

つまり、ギブアンドテイク。

だからそれを自己犠牲とか奉仕の精神として語られると、少し違うと思う。

私は確かに誰かのために何かをするときに生き生きとしているかもしれないが、それは他でもない自分のためである。

こんなことをくどくど考えながら生きてきて、そして生きているのが私という人間である。

信じられないくらい退屈な奴だなと思う。

 

話が変わるが、「どこかのだれかの未来のために」というフレーズが好きだ。

高校生の頃にプレイした「ガンパレード・マーチ」というゲームに出てくるスローガンである。

少年少女たちが兵器に乗って、無尽蔵に湧いてくる怪物と戦う話なのだが、結構過酷な設定で、彼ら彼女らは戦況の悪化の中でどんどん追い詰められていく。

それでも前線に立って戦い続ける彼ら彼女らが口ずさむのが、前述のフレーズである。

もしかしたらいつの日か戦場で倒れ、明日を迎えられなくなるかもしれない。

それでも自分たちが戦い続けることで助かる命があるなら、恐怖に打ち勝ち戦い続けよう。

そういう意味だと勝手に解釈している。

極限状態のゲームのストーリーだから輝くフレーズではあるが、そんな風に生きられたら素敵だなと思う。

もちろん私に世界は救えないし、誰かにとってのヒーローになることも容易ではない。

しかし自分が生きていることが少しでも他人にとってプラスの影響を与えるなら、それが直接的であれ間接的であれ、おとぎ話並みに素晴らしいことだと思うのである。

まぁそんな風に妄想でもしないと、人生というのはめんどくさくてやってられないというのもあったりするが。

さてまぁ、とりあえず一生懸命仕事でもしますかね。

自分が社会に還元できることはその程度である。

どこかの誰かの未来のために。

 

今週のお題「ゲームの思い出」