異呆人

毒にも薬にもならない呟き

「かわいい」は所詮「かわいい」

最近、「朱天さんの『かわいい』はアテにならない」と言われる。

まあ確かに、私は女性に対してライトに「かわいい」という言葉を使う。

外見の評価として他人に伝えることもあるし、本人に直接言うこともある。

「アテにならない」というのは、その範囲が比較的広いということなのだろうが、別に思いもしないことを言っているわけではない。

「かわいさ」あるいは外見的な「美しさ」というのは、様々な種類がある。

その形容は「可憐な」だったり「凛とした」だったり「愛嬌のある」だったり、他にも人によって形容の仕方は違うだろうが山ほどあるだろう。

私の「かわいい」の対象範囲が広いというのは、それを私の好みというバイアスを極力かけずに使うからであって、つまりは「それを『かわいい』と思う人はどこかにいるはず」というレベルで使っているからである。

外見的な部分についてだけでもそうなのだから、内面的な評価まで含めていえば「かわいくない人はいない」と言えるかもしれない。

何をどうアテにするつもりか知らないが、確かにアテにならないかもしれない。

 

そもそも、外見的な評価としての「かわいい」は、それ以上もそれ以下の意味もない。

好きか嫌いかとは、まったく次元の違う話である。

美しい景色、月や夕陽や星空、路傍に咲く花を見て、「綺麗だなぁ」と呟くのと同じレベルである。

例えば、野原に咲く美しい花を見て、それを「写真に収めたい」と思うか、「手折って持ち帰りたい」と思うか、とは別の話であるのと同じ。

「かわいい」から、友達になりたい、付き合いたい、結婚したい、セックスしたい、と思うかは別の話である。

外見の評価はあくまで外見の評価でしかない。

だからこそ、ライトに使う。

誤解を生むような場面では使わないようにしているが、基本的にそれをどう受け止めるかは私の知ったところではない。

 

例えば、私は妻を「かわいい」と思っている。

しかし、私の外見的な好みど真ん中であるかと言えば、そうではない。

「主観的に10点満点で点数をつけろ」と言われたら、5点くらいだろうか。

たぶん客観的に見ても4〜5点くらいだと思う。

妻は付き合った当初、自分の容姿を卑下することが度々あった。

私自身は「かわいい」と思っているので、それをずっと伝え続けてようやく自虐しなくなったような具合である。

少なくとも、一般的に「美女」には分類されない。

私は妻と付き合うまで誰とも交際しなかったので、「朱天さんが付き合うって、どんな人なんだろう?」と周囲にはものすごく期待されたが、写真を見せると、がっかりしたのを隠すような反応を見ることが多かった。

 

逆に言えば、私の外見的なものに対する評価はその程度でしかない。

だからこそ、「かわいい」をライトに使う。

粗製乱造して使い捨てられる。

一山いくらのものである。

そこから一歩進んで「好き」かどうかにはハードルがある。

もちろんそれもハードとソフトと両面に対して使えるのだが、「好き」は「かわいい」よりもずっと重たい。

人でなくて、ものやサービスにしてもそう。

「好き」はなかなか気軽に使えない。

程度にもよるが、本当に自分がそれを「好き」かどうか反芻してしまう。

もっと進んで「愛してる」となると、妻にしか使ったことがない。

アムールの国なら別なのだろうが、私からすれば一生で数えるほど使えば十分である。

 

外見がその人の評価にまったく関係ないとは言わないが、そこまで重要な本質ではないと思う。

逆に、外見の良さ一点で、他の欠点に目を瞑れる人がいるなら、それはそれですごいことかもしれない。

私には怖くてとてもできないが。