異呆人

毒にも薬にもならない呟き

自由の刑から放免され

何を書こうと思っていたか忘れた。

1日に1回は記事を書いていた頃は、思いついたテーマはメモをして残すようにしていたが、書く時間のなくなった今はメモに残しても溜まっていくだけなのでやめてしまった。

どうせ大したことではない。

忘れてしまうようなことである。

しかし元々このブログは、そういう毒にも薬にもならない呟きの吐きだめなので、競馬記事やゲーム記事ばかり書いている近頃は、本末転倒になっているというか、自ら存在意義を疑っている状態である。

辞めてしまえばスッキリするのだろうが、それを言い出せば私の人生はブログ以外にも辞めたらスッキリするものばかりなので、いまいち踏ん切りがつかない。

壊すことは容易くて築くことは難しいと一般的には言われたりするが、築くことの難しさを知るから心理的に壊すことが難しくなるので、一概には何とも言えないなと思ったりする。

 

あぁ、思い出した。

妻に「あなたの考えていることがわからない」と言われたのがモヤッとしたのだった。

まぁ、そんなものわかればエスパーだというのが私の常日頃からの見解だが、多分今最も一緒に過ごす時間が長くなった妻にさえそう言われるのだから、私という人間の理解の及ばなさはどうしようもないレベルなのだろう。

以前は親にも同じセリフを吐かれている。

いずれも他意のない程度の軽い物言いではあるのだが、だからこそ根本的なところで私は他人と何かが違うのだと思い知らされる。

「こういうところがおかしい」と具体的に指摘されるのなら直しようもあるし、つまり救いようがあるだろう。

きっとそういう枝葉末節の考え方ではないのだと思う。

言われている私自身も、確かに何かが違うとは思うが具体的にどうとは言えない。

そんなのは慣れっこで、今更モヤッとするほどのことでもないのだが、久々にそう言われると考えさせられるものがある。

 

考え事をしなくなった。

日常生活の雑事に追われている。

それは私にとっては望ましいことで、自ら望んだことである。

結婚して、密な人間関係が築かれるようになり、抽象的な思考から目の前のことに対する具体的な思考に移り変わらざるを得なくなる。

選択肢が大幅に減り、そのぶん悩んだり迷ったりする必要もなくなる。

やらなければならないことがあるなら、粛々と遂行するだけである。

選べるから、自由だから、人は悩み、迷う。

自由の刑に処されたとはよく言ったものである。

職業も住むところも選べなかった時代の人の暮らしは楽ではなかったろうが、かといって不幸なものでもなかったのではないだろうか。

まぁ、目の前にないことは何をどう考えても想像の域を出ないのだが。

 

独りになる時間がもっとほしい。

そういえば新入社員だったころに、社内報に載せる自己紹介の「これがないと生きていけないもの」という欄に、「独りで過ごす静かな時間」と書いていたのだった。

昔の自分は概ね正しい。

いろんな価値観を知り、混ざり合い、受け入れられるようになる代わりに濁っていく。

大人になるというのはそういうことで、それは悪いことではないのだが、ときどきそんな風にならなくても生きていけた頃の自分が羨ましくなる。

完成された人間というのは変わらない。

私は少なくとも大学生くらいの頃からは変わっていない。

変わったフリができるようになり、年々それが板についてきただけである。

だからときどき自分の本質を示すようなものに触れては、ハッとさせられる。

独りになりたいと思っている自分にハッとさせられる。

 

自由の刑から放免され、不自由を謳歌している身としては、それはないものねだりで善し悪しがあるとはわかっている。

だから何もしない。

ときどき誰にも言わずにこうやって独りごちるだけである。

出張も減るんだよなぁ。

家に帰りたくないという、男性諸氏の気持ちがここにきてわかるようになるとは。

やってみなければ気づかないことはまだまだあるようである。