異呆人

毒にも薬にもならない呟き

難しいことは考えない、難しく考えない

最近、難しいことを考えなくなったなと思う。

概念的なことというか、抽象的なことというか、今までこのブログにも綴ってきたようなことを考える機会が減った。

それは多分に結婚したことと関係しているのだが、そうなることは自分が望んだことであり、ネガティブには捉えていない。

自分の中ではもう十分に考え尽くしたと思うし、だからこそ今はシンプルに生きていきたいと思っている。

ネガティブに捉えれば、日常の雑事、目の前のことばかりに囚われているとも言えるし、俗っぽい生き方だと言えるかもしれない。

まぁ俗っぽい人間なのだし、むしろ今はそうありたいと思っているのだから、なんら問題はないのだが。

 

10代の頃は、そんな生き方が嫌だった。

ただ生きていくだけのことがとても低俗に思えていた。

自分が何のために生きているのか、どう生きていくのか考えない生き方に価値はないと思っていた。

超俗していたいというような、若さゆえの願望のようなものがあった。

別にその頃の自分を批判したい気持ちはないし、笑うつもりもない。

ある意味で自分にとってはきっと通過儀礼的なものだったろうし、そういった経過を踏まえての今の私だと思っている。

そうやっていろいろ考えた結果、私は生きることそのものには意味がないと考えるようになったし、そもそも意味がないなら低俗だろうが超俗だろうが同じことだと考えるようになったからである。

自分で自分の生き方を肯定できるならそれでいいのである。

社会一般の価値観においてどうだとか、他人からどう思われるだとか気にする必要はない。

本質的に等しく無価値なのだから、そこにあえて価値を付けるなら、それは自分自身で付ける以外にない。

 

世の中に流れる様々なニュースや、facebooktwitterなどに流れる情報を眺めていると、世の中というのは実に複雑にできているなと思わされる。

1人1人の人間がそもそも複雑であるのだから、その集合体である社会が複雑になるのは仕方ないことである。

しかしその複雑さに付き合って、物事や自分の置かれた状況を難しく考える必要もないのではないかと思う。

確かに個人の人生において主役は自分以外にはありえないし、だからある意味自分の感じ方というのは世界のすべてでもあるのだが、同時に各個人というのは世界においてどうでもいいくらい瑣末な部分に過ぎない。

syuten0416.hatenablog.com

自分が思うほど、他人は自分のことなど気にしていない。

もちろんそうでないケースもたくさんあるが、基本的にその他人にだって自分の世界はあるわけで、そこではその他人が主役なわけで、自分のことで手一杯だったりするわけである。

自分のことで手一杯の矛先が誰かに向いている場合は、その人が干渉されることもあるわけだが、終生ずっと干渉され続けるようなケースもないわけである。

その人にはその人の人生がずっと続くのだから。

つまり、大抵の嫌なことはすぐ過ぎ去る。

瞬間的に嫌悪感や不快感が高まることはあれ、そしてそれが自分自身にとっては長く感じられることもあれ、後から思い返せば大したことなかったりする。

そんなものである。

 

だから最近、難しいことは考えないようにしている。

また難しく考えることもしないようにしている。

考えたって仕方ないことの方が多い。

目の前に差し迫った状況には対処せざるを得ないが、そうやって安寧を得ても最終的には飯食って生き続けるだけなのである。

嫌なことがあったなら、忘れればいいし、逃げてもいい。

誰かに嫌われたなら、距離をとればいいし、完全に離れてしまってもいい。

私たちが地球人口70億分の1であるように、相手も70億分の1であり、相手にとっての自分も70億分の1である。

 

私自身はそんな風に思って生きているから、他人にどう思われても特段何とも思わない。

思うことがあるなら言うときもあるし、めんどくさければ言わないときもある。

ぶつかるときはぶつかって主張する、折り合えると思うなら妥協点を探る。

めんどくさい仕事、嫌な仕事も一時期のことである。

それがずっと続くようなら仕事なんて辞めてしまえばいい。

選り好みしなければたくさんある。

それで今より環境が悪くなる選択肢しかないなら自分の我慢が足りないのだろうし、部分的に悪くなるところがあってもトレードオフで手に入るものがあるときもあるだろう。

 

毎日がさらさらと流れていく。

巡航速度に乗ったのか、またフルパワーを出す必要がなくなった。

退屈。

それでいいか。

持て余すくらいがちょうどいいか。

時間の潰し方はいくつもあることだし。