異呆人

毒にも薬にもならない呟き

言いたいことを言うことが良いことばかりだとは限らない

何度かこのブログでも書いているが、私自身は一般的に毒舌と言われる。

言いたいことは遠慮せずに言う方だし、少なくとも言いたいけど言えないということはない。

それでも、何でもかんでもストレートにものを言うわけでもない。

特に最近は言いたいことをあえて言わないことも増えてきた。

その主たる理由は単にめんどくさいからである。

諍いの元になると後々めんどくさいし、言い合うような形になると、言葉のラリーをすることがめんどくさい。

別に言わなくて損することはほとんどないし、言わなくて損するような場合ははっきり言うし、言わなくてモヤっとするような場合も言ってしまう。

要は大体、言いたいことは言ってしまうということなのだが。

 

あえて言わないことが増えている他の理由としては、自分が議論に強いという自覚があることもある。

「ああ言えばこう言う奴」と言われるほど、私は詭弁家で議論における武器の引き出しが多い。

ムキになって相手を言い負かしてしまうことも、昔はしばしばあった。

自分の言い分を力と技で通してしまうことは確かに気持ちいい。

しかし、それをしても後には何も残らないのである。

むしろ自分の言い分を通すことで誰かを傷つけてしまうことがある。

たとえその相手の主張が間違っていると感じたとしても、所詮そういった感覚の多くは価値観の違いでしかないのである。

よほど他人に害なすようなものでない限り、論破することは誰の得にもならない。

自分がほんのいっとき気持ちいいだけである。

 

だから最近は適当に相槌を打って相手の主張を受け流したり、適当に持ち上げておくこともある。

言いたいことがあっても、あえて言わない。

別にその場は自分が言い負かされたことになっても、自分の主張が間違っていたことになってもいい。

多少それで周囲の認識が変わることもあるかもしれないが、自分自身が自分の考えを曲げなければいいだけの話である。

自分の考えに相手まで染めてしまう必要はない。

むしろそうやって自分の主張を認めさせようとムキになる人を見ると、なんだか哀れに思えるようになってきた。

「あぁ、この人はこういう形でしか自分を認めてもらえないんだろうな」と。

誰かに勝って自分の方が強いということにしないと、自分の価値観の正しさを認識できないのだろうな、と。

本当に良いもの、正しいこと(少なくとも多数からそう認識されること)というのは、自然と周りの人間に認められていくものである。

自らふれて回らなくたって、その価値は周囲に伝わる。

 

そういう損して得取るというか、わざと負けるというか、死んだふりをするというか、ができることは、大人になったことの一つの証左かなと感じる。

小学生くらいの頃、将棋やオセロで親戚のおじさんたちを負かしても、「いや〜、朱天くんは強いなぁ」なんて言ってニヤニヤしていた。

子供の私からすれば勝ってすごく嬉しかったのだが、同時に負けて悔しそうにしない大人たちが不思議でもあった。

でも今思えば、所詮ゲームで負けたくらいで子供相手に大騒ぎしないだけ、彼らは大人だったのである。

もしかしたら、わざと手を抜いて負けてくれていたかもしれない。

そういう心の余裕があることは、とても大切なことだなと思う。

もちろん、真剣勝負で手を抜いたら相手に失礼になる場合もあるが。

要は勝ち負けだけが物事の本質ではないのだ、ということが言いたいだけである。

 

この記事を書いている日、諸々の事情があって社長と同行営業していた。

取引先に向かう車内で話をしていて、社長は自分のしたい話はするが、興味のない話題は付き合おうともしない。

普段からそうで、自分の言い分が否定されると、それが合理的な理由があっても途端に不機嫌になる。

齢50を過ぎても、大人になれない人というはいるものなのだなと、なんだかかわいそうになってくる。

もちろん大人になることだけが良いことではなく、子供のような心とか、負けず嫌いとか、そういったものがプラスに働く世界もあるわけだが、少なくとも一般社会を生きている凡人には、大人になることの方がはるかに大切だと思う。

今日も適当に太鼓を担いで、ポンポンと鳴らしておいた。

私の合いの手に愛想がなかったことに気づいたかどうかは知れない。

少なくとも私は、それにすら興味はない。