異呆人

毒にも薬にもならない呟き

欲しいもの、及び、身体が覚えていることについて

唐突に同僚の自宅に飲みに行くことになった。

この同僚宅には以前にも飲みに行ったことがあり、奥さんと会社のメンバーとも仲が良く、宅飲みでないときも時折奥さんも含めて飲んだりする仲である。

私がその日飲むことを聞いたのは当日の朝だったが、どうも奥さんが飲みたがっていて、それで急遽招集されることになったようである。

そしてただ飲むだけでなく、「みんなでスーパーファミコンクラシックをやりましょう!」という話だった。

スーパーファミコンクラシックというのは、往年の家庭用ゲーム機の傑作、スーパーファミコンを復刻したもので、当時流行っていたソフトがいくつか内臓されているものである。

実際に見せてもらうと本体自体は昔のものよりとても小さく、ソフトを挿す入り口は作られていたが、それは使うことのない飾りだそうだ。

 

スーファミクラシックを同僚が買ったという話は聞いていた。

奥さんと一緒にプレイしていて、なかなか楽しいという話も聞いていた。

私もそれが発売されるというのは知っていて、「欲しいなぁ」とは思っていたし、同僚にどうやって探したか(なかなか手に入らないので)聞いたりもしていた。

昔は相当それで遊んでいたし、ゲームは私にとって一番の娯楽である。

だが、実際に買うことはなかったし、そもそも探しもしなかった。

私にとってそういうことはよくあることで、相槌レベルで「いいなぁ、欲しいなぁ」、「あったら良いよね、便利だよね」と言うことはよくあるが、実際に買うことは稀である。

それは本当は欲しいと思っていないとかそういう訳ではなく、欲しいと思っているけれどもコスト(手に入れるための労力や金銭)を考えると、そこまで欲しいものではないということである。

スーファミクラシックもそうだし、ニンテンドースイッチもそうだし、実用的なもので言えばトースターも欲しいと言いながら未だ買っていない。

なくてもなんとかなるものなら、どんどん後回しにされる。

というより最終的に購入されないことが多い。

 

私の場合、「欲しい」の度合いが高いものは、それが入手可能なものなら「欲しいなぁ」と呟く間も無く買っている。

「欲しい」と思い続けている時間がもったいない。

だったらさっさと手に入れてその恩恵を享受するか、思ってたのと違ったなら、さっさと諦めて考えないようにした方がいいと感じる。

頭の中に特定の思念が残留している状態というのは好ましくない。

もっと考えたいことはたくさんあるし、考えられることの量には限りがある。

それにそもそもそこまで欲しいものがほとんどないので、たまに衝動買いするくらいは懐に大したインパクトを与えない。

世の中の大抵のものというのは、自分にとってあってもなくてもどっちでもいいもの、あるいはどうでもいいものである。

年に1つか2つくらい、コストパフォーマンスを考えずに買い物したって問題ない。

 

さておき、そんな自分にとってあってもなくてもどっちでもいいが、あったら楽しいだろうなと思っていたスーファミクラシックをプレイする機会が唐突に訪れた。

星のカービィ スーパーDX」、「マリオカート」、「ストリートファイター2」、「パネルでポン」あたりを同僚たちと一緒にプレイした。

最後にプレイしたのは20年以上前のはずだが、コントローラを握った途端に感覚が蘇ってくる。

十字キーとYボタンを押さえる指に力が入る。

コントローラを握っていること自体に懐かしさがあって、それだけで少し高揚感を味わえた。

 

そしてシステムとかすっかり忘れているのに、ある程度のことは身体が覚えていた。

特にマリオカートをプレイしているときに、それを感じた。

LRボタンのミニジャンプからドリフトに入るやり方、ドリフトに入るタイミング、インコースギリギリを削るようなコーナリング、ドリフト後のミニジャンプによる軌道修正。

かつてタイムアタックで己の亡霊と戦い続けた頃の記憶が蘇ってくる。

「あぁ、懐かしいなぁ」とノスタルジーに浸りながら夢中で操作していると、いつの間にか同僚を周回遅れにするような高速走行を見せつけていた。

大人げない。

 

それにしても、これだけブランクがあっても即座に身体が思い出すとは、人間の身体というのはつくづくよく出来ている。

逆に身につけたいことというのは、身体が覚えてしまうくらいまで反復してトレーニングすべきなのだろう。

まぁ、どうせならもっと実用的な能力を身につけるべきだったなと、我ながら今更ながら思う。