異呆人

ノンフェータルなペシミズム

座間9遺体事件について思うこと 〜殺すことはなぜ悪いか〜

news.infoseek.co.jp

この事件の報道を初めて目にしたとき最初に思ったのは、「多いな」ということだった。

1人の人間がテロのような同時的攻撃によらずに連続して殺害する人数としては、異例の数だと思う。

そして自殺願望のある人をSNSで探していったという手口が明かされて思ったことは、「自殺を手伝う」ということを自ら発信するような人間と会う人が、そんなにもいるのかということだった。

「死にたい」と思っている人間はたくさんいるだろう。

人生、あるいは世の中というのは、そんなに生易しいものではない。

私だって死にたい。

ただ積極的に死ぬ理由がないだけである。

放っておいたって人間は死ぬし、もしかしたら生きてて良かったと思える瞬間もあるかもしれないわけだから、生きるということは元本保証される投資をするようなものだというのが自論である。

さておき、ちょっと「死にたい」と思う人がいることはわかるし、その中には本当に死のうとする人がいるのもわかるが、それを他人に手伝ってもらおうという人がそんなにたくさんいることが理解できない。

母数からすれば9人なんて多くはないのかもしれないが。

 

「1人で死ぬのが寂しい」という感覚に共感できない。

死ぬのが怖かったり寂しかったりするのは悪いことではないと思う。

じゃあ死ななければいいんじゃないかと思うのである。

そういう正常な判断ができない人は、誰かに頼まずに自分で死ぬ。

病気なら正常な判断ができないことは責められることではない。

ただ、今回の被害者たちの判断能力は正常だったのではないだろうか。

正しいとか間違ってるとかは別として、理性的に判断しているように思う。

 

そうやって「死にたい」と申し出てくる人を殺すことは悪いことだろうか。

当然ながら悪いことである。

自殺幇助は犯罪である。

だから悪い。

そもそも善悪なんてものは、すべからく人間が勝手に考えたものである。

殺人が倫理的に悪であるかどうか議論することはナンセンスだと思っている。

自然界では殺しも盗みも何でもアリである。

ただそれは種としての繁栄を考えた場合に効率的でない。

だから人間は社会を作り、ルールを作って生活している。

そのルールに反することは悪いことである。

だから「人殺しの何が悪いのか?」なんて聞かれたら、「法律に背くから悪い」と私は答えるだろう。

心情的なものは別である。

もし大切な人が「殺してほしい」と訴えてきたら、私は「殺してあげたい」と思う。

実際にやるかどうかは別として。

 

少なくともこれまでの報道の段階では、容疑者は「本当に死にたがっている人はいなかった」と供述している。

であるなら殺人で、計画性もあるので情状酌量の余地も少ないだろう。

彼がどんな経緯で今回のような事件を起こしたのかなんて、真には本人以外にはわからないし、分析することも意味がないと思うし、さして興味もない。

私たちはビリヤードのナインボールのブレイクのように、生まれ落ちた瞬間に弾き出されて走り出す。

すぐにポケットに落ちるボールもあれば、クッションや他のボールに当たって様々な軌道を進むボールもある。

概ね、転がる先は選べない。

自分で決めているように思っても、様々な環境因子に選択肢を規定されている。

結果、人は最終的に選ぶべくして選ぶことになるのである。

軌道は読めないし、変えられない。

だから社会が想定し得ないイレギュラーはたくさんあるし、社会というのはそういうイレギュラーを時に排除し、時に包含して存続できるようになっている。

考えるだけ無駄だろう。

 

もし本当に今回の被害者が真に死ぬことは望んでいなかったのだとすれば、問題解決が死ぬことによってしかなされ得ないのか、相談したり話を聞いたりする相手が見つけられる仕組みが必要なのだろう。

あとは軽々に見知らぬ人に会ったりしないように自衛するしかない。

悪意から完全に身を守る術はない。

自分は大丈夫と思っている人間ほど危ない。

逆に本人が真に死にたいと思っていたのであれば、本人にとっては良かったのではないかと思う。

もったいないとは思うが。

昔、希望者が生きたまま臓器提供できる仕組みができないかと夢想していた。

心臓、腎臓、肝臓など、すべてを利用すれば、1人の命で複数の生き続けたい人を生かせるかもしれない。

安楽死できるなら、死にたい人にとっても幸いである。

ほら、みんなHAPPY。

いや、もうこれはSFか。