異呆人

毒にも薬にもならない呟き

世界の感じ方

ときどき自分自身の物事に対する感じ方が、他人とまったく違うなと思う。

妻にしても、友人にしても、同僚にしても、目の前のことにしっかりリアクションできているなと感じる。

喜んだり、怒ったり、悲しんだり、凹んだり。

そんなに嬉しいことなのか、そんなに悲しいことなのか、それで1日舞い上がれたり、それで1日仕事が手につかなかったりするものなのか、と思う。

それらは私にとってはとても瑣末なことのように感じられるのだが、じゃあ何が自分にとって一大事で一喜一憂することなのかと考えると、そんなものなどないのではないかと思えてしまう。

きっとどこかにあるのはあるのだろう。

目の前にやってくるまで気づかないものなのかもしれない。

ともかく、周りの人が日常生活のあれこれを真剣に受け止められることに、不思議な感覚や羨ましさのようなものを覚える。

 

私のクセとして、ゴールから考えるクセがある。

今やっていることの、最後がどうなるのかを考える。

もちろんとりあえずやってみることもあるのだが、先のビジョンがまったくない段階で手をつけることはほとんどない。

終わりを考え、それに向けて作業を進めていく。

物事を収斂させていく。

これを人生に当て嵌めると、人生のゴールというのは死ぬときである。

だから私は、最後に自分が死ぬということを念頭に置いて生きていると言える。

終わりを意識すれば、世の中どうでもいいことはたくさんある。

目の前の1日1日というのは同じもののない貴重な1日ではあるのだが、終わるまでたくさん存在する毎日のうちの1日でしかない。

人生というスパンで物事を考えたときに、最後は死んで終わるものだと考えたときに、目の前の行動や選択がどれほどの意味を持つのか。

そう考えると、大したことがないことは多い。

 

ただそうは言っても、感情を揺さぶられることはあるだろう。

それをありのままに受け止めることは、とても素晴らしいことだと思う。

しかしそういう人を見るたびに、自分とは違うようにできているのではないかと思えてならない。

子供がすごいものを見つけたとでもいうように、野花を摘んでくるのを微笑ましいと思う感じ。

その人にとっては大切なことなのだろうし、そう思える感性が素晴らしいとは思うのだが、自分が同じようには感じられないという感覚。

薄い膜のような断絶感がある。

生きている場所を間違っているのではないかという違和感がある。

 

結婚して、それまでよりものすごく物理的に近い位置に他人の存在を感じる毎日の中で、そういった感覚はより強くなっている。

そう、孤独は誰かと一緒にいるときの方が強く感じるのだ。

それはわかっていたことを反芻しているだけである。

私はその感覚を黙って抱いたまま生きていくということを決めたのだ。

ただそれでも消化しきれないとき、こうやって文章にしたくなるのである。