異呆人

毒にも薬にもならない呟き

亡き祖父の思い出

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

 

父方の祖父はわりと厳しい人だったと記憶している。

祖父母といえば甘やかしてくれる人、みたいな子供心がある中で、父方の祖父だけはしつけに厳しかった。

と言っても、やたらめったら小言を言う人ではなく、ご飯を食べるときの姿勢だとか、箸の持ち方だとか、そういった基本的な礼儀作法や姿勢についてうるさい人だったと思う。

特に幼少期の私は非常な猫背で、「背中が曲がっとる!」とよく言われていた記憶がある。

私からすれば、どちらかといえば厳しいイメージしかないのだが、祖母からすると祖父は私を一番可愛がっていて、思い入れがあったとよく語る。

祖父母にとっては初孫だったこともあるかもしれないし、私が生まれた頃は両親が共働きで、2歳くらいまでは近所の祖父母の家で面倒を見てもらっていたこともあるかもしれない。

 

祖父は苦労人で、几帳面で、質素倹約を地で行くような人だった。

幼少期に戦争の体験があったからかもしれない。

私の本籍地は出生地の大阪とは異なる滋賀のはずれにあるのだが、そこから土地を置いて出てきたのが祖父である。

役所勤めをしながら、夜間の大学に通って大卒の資格を取ったと聞いている。

「もったいない」という精神が強い人だった。

もらったもの、安いときに買い溜めたものなどが、田舎の家の倉庫にたくさん眠っていた。

それも特別な品ではなく、石鹸や洗濯洗剤、肌着や茶碗などの日用品がほとんどだった。

それも膨大な量である。

あれだけ日用品を溜め込んで、いつ使おうと思ったのだろうか。

ちなみにそのうちのネクタイだけは、今も私が使っているものがある。

もったいないと思ったからなのだが、その精神自体が祖父から引き継がれたものかもしれない。

 

写真をよく撮る人だった。

家族写真である。

別に、草花や風景や人物画などの芸術性のある写真を撮るわけではない。

何と言うか、本当に記録のためだけに家族写真を撮り続けているかのようだった。

毎年、私の実家では父方の親族一同が盆と正月に集まる。

最大で総勢15名前後になるのだが、スナップ写真のような感じで撮るのではなく、毎回三脚を準備して集合写真を撮るのである。

祖父が何を思って写真を撮り続けていたのかわからない。

しかし結婚式のプロフィールムービーのために写真をあれこれ引っ張り出していると、それが非常に役に立ったことは事実である。

また、年々新しい家族が増えていく様子が克明にわかる。

あの頃は、何でこう毎度写真を撮らなければならないのかと思ったりしたが、そういった形で記録のように思い出を残していくのも味があるものだなと思った。

 

酒が好きな人でもあった。

日本酒である。

そのせいで肝臓を悪くした。

パックの日本酒が家には置いてあって、それを毎晩飲んでいたようである。

日本酒以外を飲んでいるのを見たことはない。

私が酒を飲める年齢になる前に祖父は亡くなったので、一緒に酒を飲んだことはない。

もしそんな機会があったら、きっと喜んでくれただろうとは思う。

祖父の墓前には必ずワンカップを供える。

田舎の村営墓地にある立派な墓は、祖父が生前に建てたものだった。

そこには祖父より以前の先祖も眠っているのだが、私が知っているのは祖父だけである。

自分もいつか、そうやって墓石の下に骨を収納されるのだろうか。

まぁ、死んでからのことは好きにしてくれたらいいと思う。

 

「『先生』と呼ばれる職業に就くんやで」と、よく言っていた。

税理士とか弁護士とか、そういう士業になるように祖父は勧めてきた。

ホワイトカラー版の手に職というか、そういうスキルがあれば食いっぱぐれないと思っていたようである。

堅実な祖父の性格が表れていたなと、今となっては振り返られる。

私は面と向かってそれに意を唱えたことはなかったが、いわゆる実学というものが嫌いだった。

「役に立つ学びほど面白くないものはない」というのが、昔の私の考え方だった。

学問というのは、純粋な興味から出発するから学問なのだと思っていた。

仕事をするようになった今は、祖父の考え方はよくわかる。

やはりご飯を食べていくのが生活の基礎なのである。

飯を食うためには稼がねばならず、稼ぐためには仕事が必要である。

士業が必ずしも食いっぱぐれない仕事ではないというのが昨今の実情ではあるが、祖父の発想そのものは当然だなと思う。

そういえば、「他人から必要とされる仕事をせなあかん」とか言っていた気もする。

いずれにしても、今の私はその祖父の期待に応えられていないのだが。

祖父が生きていて今の私を見たら、何と言うだろうか。

 

祖父が亡くなったのは私が20歳のとき、1月のことだった。

正月に帰省したときは、すでにもういつ死ぬかわからない状態だった。

私が最後に会ったとき、祖父はかろうじて「あぁ」だか「うぅ」だか言った。

むしろそうやって反応したことが、とても珍しいと祖母は言っていた。

大学は地元から遠く離れていたので、いつ帰省しなければならないかわからず、飛行機代の余裕がなかったので成人式は地元には帰らなかった。

それで良かったと思っている。

 

久しぶりにお題記事、と思って、とりとめもなく適当に書いた。

そういえば、久しぶりに祖父のことを思い出した気がする。

祖父のことを知る人がいなくなるたび、きっと祖父の存在は少しずつ消えていくのだ。

そしていつか私も死んで焼かれて骨になって、忘れられて消えていくのだろうなと思う。