異呆人

毒にも薬にもならない呟き

言葉の違い、文化の違い、及び海外旅行について

先日、親友に誘われてランニングに出かけた。

親友は今、大学院に通っている。

専門職で勤めていたのだが、退職して大学院に入り直した。

その分野では実務経験を積んでから大学院に入ることが一般的なので、珍しいことではない。

運良く、卒業後の大学講師としての仕事も決まっているらしい。

そんな彼の大学院での友人たちとランニングすることになったのだ。

歳の頃は皆同じくらい。

一人だけ、ケニアからの留学生が混じっていた。

まだ日本に来たばかりで日本語がほとんど話せないので、日時のやり取りをするLINEもEnglish only。

優秀な大学院生である彼らは問題なく英語が話せるが、私は英語が話せないのでLINEのやり取りはただ眺めているだけだった。

読むことはできる。

 

当日、まだほとんど日本を観光したことのないケニア人の彼女のために、メンバーの一人が浅草寺までのランニングルートを企画していた。

往復約10kmほど。

ちなみにケニア人と言っても、彼女は親友と同じ分野の研究者として来日しており、陸上競技経験者ではない。

跳ねるようなバネのある走りは流石だなと思ったし、たぶん素質はあるのだと思うが、特別速いわけではない。

ケニア人なら走るの速いでしょ?」というのは、「大阪人ならノリツッコミができるでしょ?」というのと、同じくらいの偏見である。

そんな彼女は別の集まりでラグビーをしたときに膝を負傷したらしく、最初は良かったものの最後は痛そうにしていた。

怪我してるなら走らなければいいのに、何事にも貪欲に挑戦するあたり、流石は日本まで来て知識や技術を吸収して帰ろうという留学生である。

 

会話はほぼ英語だった。

私も見よう見真似で会話に参加した。

リスニングは大体できたが、私の拙い英語がどれだけ伝わったかは不明である。

別にケニア人と会話するからといって、特別変わったことはない。

言語が英語に変わっただけで、話している内容はたわいない世間話みたいなものである。

そういう意味では、違う国や文化の人とコミュニケーションを取るということは、多様な価値観を学ぶ機会にもなるが、特段素晴らしい効用があるというわけでもないと思う。

別に日本人同士だって、受け容れられるかどうかは別にしていろんな人がいる。

英語は話せないより話せた方がいいだろうが、それはつまりその人の人生における費用対効果の問題だろう。

私なぞは拙い英語が話せれば十分だし、必死に練習して英語がペラペラになったとしても、日常生活や収入にさしたる変化はない。

 

ただ、目の前に英語しか通じない相手がいる状況においては(ちなみにケニア人の彼女の母語は英語ではないらしいので、この表現は適切ではない)、もっと私の英語が流暢ならもう少し面白い会話ができるのにな、とは思う。

だが英語を習得しようという強いモチベーションまでは湧いてこない。

ちなみに私は海外旅行を一度もしたことがない。

日本にだってまだ行ったことのない土地がたくさんあるのに、わざわざ海外まで費用をかけて行くだけの動機がない。

これは海外旅行の価値を否定しているのではなく、私にとっては費用対効果が低いというだけである。

私の旅行の動機は、ほんの少し非日常が味わえて、美味しい料理を食べて、宿でダラダラしたいというものである。

これは近場の安い温泉宿でも十分達成できる。

 

そんな私ではあるが、新婚旅行はオーストラリアに行こうとしている。

もちろん私が行きたいわけではなく、妻が行きたいだけである。

私なら同じ費用で国内のデラックスな旅行をする方が余程嬉しい。

まぁでも、一生に一度くらいは日本から出てもいいかなとは思う。

こんな機会でもない限り、海外旅行などしないだろうし。

私の拙い英語はほとんど通じないだろうが、どうせ現地添乗員付きのツアーか何かにするつもりなので大した問題はないだろう。

でも高いんだよな、費用が。

結婚式でも感じたが、「一生に一度」という魔法の威力は恐ろしいものがある。