異呆人

毒にも薬にもならない呟き

我慢のしどころ

最近の世の中の傾向として、「我慢」が軽視されている気がする。

「我慢することは良くない!」、「自分に素直に!」みたいな。

なんだか安直だなと思う。

本当に世の中が我慢せずに生きていける人たちばかりなら、たぶんそもそも「我慢」なんて言葉は存在しない。

止むに止まれずするから「我慢」なのである。

我慢を軽視する人たちは、我慢を重ねながら生きている人をバカにするような傾向も感じる。

私は真面目にコツコツ頑張る人が好きだ。

アリとキリギリスなら、アリが好きだ。

私は決して「アリ」タイプの人間ではないが。

アリとキリギリスのくだりは好き嫌いのレベルの話だが、実際、生きていく上でも我慢は必要である。

 

だからといって、無理になんでもかんでも我慢した方がいいと言いたいわけではない。

むしろ私は我慢せずに言いたいことを言ったり、やりたいことをやることの方が割合的には多い。

我慢には、我慢のしどころというものがある。

我慢しすぎて心身に不調をきたしては元も子もない。

そういう状況に陥った人ほど、我慢が悪であるかのような思い違いをするのだが、それはまた極端な考え方で、本当は我慢のしどころを間違えただけなのである。

そもそも我慢というのが何かと考えれば、ストレスに耐えることである。

同じことをしていても、それをストレスと感じる人と感じない人がいる。

ストレスを感じる人がその作業を続けることは我慢していることになるだろうが、ストレスを感じない人にはそれは我慢でもなんでもない。

だから我慢するかどうかを判断するということは、ストレスを許容するかどうかを判断することでもある。

 

ストレスというのは心のテンションである。

糸の引っ張り具合と考えてもいい。

高ストレス状態というのは糸がピンと張った状態であり、ストレスフリーな状態というのはだるんと弛んだ糸だと思えばいい。

ストレスがかかるということは、悪いことばかりではない。

むしろ生きていくということそのものが、本質的にはストレスに晒され続けるということと同じである。

本当にストレスフリーな状態が長期間続けば、人間の脳細胞なんて死滅していく。

ストレスというのは適度にかかった方がいいのである。

 

「我慢」に話を戻すと、我慢することは高ストレス状態を耐えることであり、ストレス耐性を高めることにつながる。

どんなに避けても、世の中ストレス因子だらけなのである。

耐えられないと、リアルな意味で死ぬ。

耐えられれば手に入るものが、逃げていってしまう。

その人にとって、真の意味でプラスにならない。

だからどこまでのストレスに耐えられるかということが、その人の人生を左右することもある。

だが繰り返すが、我慢すればいいというものではない。

我慢自体は身体に悪い。

高ストレス状態に耐えるのだから当然である。

 

では、どこが我慢のしどころなのか、それをどう判断したらいいのだろうか。

そんなもの、私にはわからない。

わかったら苦労しない。

個々人によって違うし、同じ人でもケースバイケースである。

身も蓋もないが、自分で見極めるしかない。

むしろ、そういった判断基準を自分以外の誰かが考えた画一的なものに安直に合わせることは、その人の人生を悪い方向へ導くと思う。

求められるのは状況判断能力である。

考え続けなければならない。

失敗することもあるが、それこそ試行錯誤である。

 

だがあえて一つ基準を挙げることもできる。

我慢しすぎて失敗することの最も悪いケースは、心身に不調をきたすことである。

それは自身のストレスの許容閾値を超えている。

逆に考えれば、自分のストレスの許容閾値を知ることが、我慢することでの失敗を防ぐ最良の方法である。

我慢のしどころはそれでは判断できないが、最悪の失敗は免れられる。

ストレスの許容閾値を知る方法は、自分と対話することである。

自分自身を客観視することである。

ストレスを引き受けすぎて失敗する人は、目の前の状況に対して一歩引けずに、どっぷり入り込んでしまうことが多い。

あまり入り込むとパニックになる。

 

「我慢する」という状況に至る前の、心の緩衝帯があれば一番いいのだが。

状況に対して数秒立ち止まれる余裕。

状況が迫ってきたときに、逃げるのではなく一歩だけ下がる余裕。

まぁそれを作ることが難しいから、我慢することが難しくなるのである。

さておき、何が言いたいかって、「するべき我慢があるよ」という話。