異呆人

毒にも薬にもならない呟き

大きな仕事

最初はちょっとした打ち合わせのつもりだった。

今春入って来た新入社員に私の担当を少し引き継ぐ予定だったので、その詳細が決まったかどうかを確認するだけだった。

5月入社の彼は8月に試用期間を終えて本格的に業務に入るという予定だったが、気づいたらもう8月になっている。

上司も忙しそうだったので、自分から突っついてみることにした。

案の定、ただ忘れていただけで、引き継ぐ予定の取引先は以前に打ち合わせしたときとほとんど変わっていなかった。

一つ、私以外の社員の少し大きめの取引先を引き継ぐことになっており、それが意外だった。

そこの最初の担当は私だったので、誰が担当しても大きな問題はないとわかっているが、ついて回る数字のサイズはそこそこである。

「そこ、担当させるんですね〜」みたいな感じで、それとなく話をしていた。

 

私の担当エリアは範囲が広い。

最大のときは、中部、北陸、近畿、中四国、九州のすべてが私一人の担当だった。

東京の本社しか事務所のないうちの会社は、西日本の取引先が少なく、予算数値だけならそれだけのエリアでも一人前くらいしかなかった。

それを私が少しずつ新規開拓して増やしていき、北陸、中部、を他の担当に任せて切り離していった。

それでも広い。

数字上は一人前でも、移動が絡むので行動管理が難しい。

他の営業担当とも連携できず、いわば孤軍奮闘の状態である。

会社も私に任せることしかできず、「とりあえず頑張ってくれ」みたいな感じで、何ら手当をされていない。

だから人を増やすときは優先的に私のフォローに回してもらうことになっており、今回の新人への引き継ぎもその一環である。

そうしないと、私が新規開拓のペースを上げられない。

しかし彼に担当させる取引先に大きいところを混ぜていくと、私が任せられる数が減ってしまう。

全体として人員配置をどうするつもりなのかは、聞いておきたかった。

 

すると、「いや、実はね…」と上司が切り出した。

「◯◯がうち専売になるかもしれなくてさぁ」と言う。

そこはかなり大きな取引先で、以前はうちをメインで扱っていたが、他者にシェアを奪われてそれきりになっているところだった。

取り返すために、私がブログ上で何度も酷評しているB部長が交渉していたのだが、彼の交渉というのは「いや〜、どうですか?」と言って揉み手をするだけなので話にならない。

もう数年来、没交渉に終わっている。

「いや〜、B部長、やったじゃないですか」と、私はB部長を持ち上げた。

実際、それが事実なら金星である。

最近は社長が目に余ると言って直々に尻を叩いていたので、真面目に仕事をしたのかもしれない。

というか、「だったらもっと早くに何とかしておけよ」という話ではある。

 

しかしB部長は困ったことにブラフを使う。

上司の「かもしれない」という部分が、私には引っかかった。

そこをただすと、「いや、今回は確率は高いと思うよ。今日の会議でもそんな話はしなかったでしょ?」と言われた。

確かにそうである。

B部長がブラフを使うときは、「やってますよ」感を出すために、皆の前で風呂敷を広げてみせる。

逆に、確度の高いときは、それがきちんと決まるまで隠しておくのだ。

横取りされるのを防ぐためかもしれないし、根が慎重なのかもしれない。

そして決まってから、「どう、すごいでしょ?」とばかりにサプライズ的に披露する。

バカバカしいのだが、まぁきちんと仕事をしたのであれば十分だと私は思う。

 

「いや、その◯◯の担当を、朱天にお願いしようと思ってさぁ」と上司は続けた。

私は表情には出さずに内心で驚く。

それは寝耳に水というやつである。

その取引先の展開するエリアは神奈川。

西日本担当の私に任せるのはバランスが悪い。

私は神奈川担当の後輩の名を挙げ、「彼がいるじゃないですか」と言った。

上司は「あいつはキャパシティが現状でいっぱい。むしろ今の担当先を深掘りさせたい。それにあいつの取引先と◯◯が仲が悪いらしくて、別の担当にしたいんだ」と言った。

わからない話ではない。

他の営業もキャパシティに余裕はない。

しかし私だってキャパシティに余裕はない。

いや、時間を捻り出せないことはないが。

 

「新規開拓、できなくなりますよ」と、私は言った。

新規開拓の動きを一切止め、他の取引先へのフォローを少し抑えればできないことはない。

「わかってる。今は目の前の数字がほしい。取引が始まる最初の段階は、他の営業もフォローに回す」と、上司は言った。

あと2年で会社は大きな転換点を迎える。

たぶん、来年は通常業務がほとんど止まる。

そのときにまとまった成果がないといけないことは、私も知っている。

イレギュラーな動きになっても、先々で必要になる新規開拓の動きを止めても、私というカードを使ってでも、目の前の数字を確保しようという覚悟や良し。

「難しい仕事ですね」と、私は言った。

「難しいから朱天に頼むんだよ」と、上司は言った。

忙しくなりそうである。

だが出張は減るので、妻は喜ぶかもしれないなと思った。