異呆人

毒にも薬にもならない呟き

やはり生身の人間の方が怖い

今週のお題「ちょっとコワい話」

 

私は怖いもの知らずである。

周囲からもそう思われている。

人生において最も忌むべきものは「死」、つまり命を失うことである。

逆に、死ぬことを怖いと思っていない人間は、何も怖がるものはない。

人とぶつかること、嫌われること、身の回りにある何か、あるいは友人知人を失うこと。

それらは時には悲しみを伴うこともあるだろうが、失うことそのものを「怖い」と思うことはない。

 

ただし幼い頃は怖いものがたくさんあった。

幽霊やお化けの類は怖かったので、一度お化け屋敷に入ったときはずっと下を向いて歩いていた。

友達に嫌われることも怖かった。

親や学校の先生に怒られることも怖かった。

だから他人に嫌われないように気を遣っていたし、怒られないように良い子でいようとした。

それはまあ、幼い頃はそういうものなのだと、今は思う。

長じていくにつれ、教わる価値観ではなく、自分自身で見出した価値観を身につけていけばいい。

 

怖いものが多かった幼い頃は、怖い夢をたくさん見た。

特に、怖いものに追いかけられる夢が多かった。

包丁を持った山姥に追いかけられたり、ピストルを持ったヒットマンに追いかけられたり、一つ目で一角のサイクロプスみたいな化け物に追いかけられたりした。

そういうとき、私は大抵高いところから飛び降りる。

あるときは東京タワーのような場所からハングライダーで逃げ出したり、あるときは実家のマンションの高層階から飛び降りたりする。

もしかしたら、私にとっての恐怖からの逃避というのは、そうやって身を投げるようなものだったのかもしれない。

一度、頭が虎、尾が蛇の化け物に追いかけられたときは難儀した。

ぐるぐるループする回廊を逃げ回っていたのだが、速く走ると尾の蛇に追いついてしまう。

それに怯んでゆっくり走ると、頭の虎に追いつかれてしまう。

夢は私を簡単に逃さないように進化していたのかもしれない。

 

最近はそんな怖い夢も見なくなった。

せいぜい、会社に遅刻する夢とか、その程度である。

遅刻することはマズイことではあるが、怖いというほどではない。

起きたことはどうしようもないのだから、素直に謝ればいい。

そんな私なので、「コワい話」など書くことがないのではないかと思った。

が、よくよく思い出してみると、数年前に「怖っ!」と心胆寒からしめた出来事があったことを思い出した。

それは5年ほど前、前の職場で働いていた頃のことだった。

その日は外回りをしていて、予定より少し早く仕事が終わったのだが、会社のホワイトボードに「NR」と書いてきたのでそのまま帰ることにした。

平日、いつもより少し早く帰れるとお得な気分になる。

乗る電車も、帰宅ラッシュより前だから空いていた。

いつもの駅で乗り換える。

 

ホームで電車を待っていると、隣に女性が立っていた。

齢は40歳前後だと見えた。

若くはないが、そこまで「中年」という感じでもない。

長い黒髪の先を指でくるくる巻いている。

毛先がチリチリで、失礼ながらあまり綺麗な髪ではなかった。

それを執拗に、それこそそのせいで髪が傷んでいるのではないかと思うくらい、指でくるくる巻いている。

普通ではないなと思った。

狂気すら感じる。

 

電車が来たので乗り込んだ。

空いてはいるし、探せば席は空いてそうだったが、目のつく範囲に空席はなかった。

私はドアの脇のスペースに、もたれかかって立つことにした。

そこまで長時間乗るわけではないし、ただ立っているより背中を預けられた方が楽だろうと思ってのことである。

すると、目の前に先ほどの女性が立った。

反対側のスペース、同じようなドアの脇にもたれかかるならわかる。

しかしその女性は、私の一歩前くらいの位置に立っていた。

そこは、ドアの真ん前である。

人が乗ってくれば明らかに邪魔になる。

その位置に、私の方を向いて立っていた。

 

自分に緊張が走っているのがわかった。

明らかにおかしい。

移動すべきか。

ただこの状況で移動すると、逃げるというか、避けているように思われるかもしれない。

いや、逃げるのだし、避けるのだから、それでいいのだが、万一追いかけてくるというか、ついて来られたらどうしよう。

その状況は、今の状況よりはるかに怖い。

そんな考えが頭の中でぐるぐる巡る。

途中駅に停まった。

少ないが、人は乗ってくる。

目の前の女性は少し下がってスペースを作ったが、扉が閉まると再び元の位置に立った。

やはり、おかしい。

 

電車が動き出す。

少し揺れたとき、女性はふらついたように一歩踏み出し、私の胸のあたりに手をついた。

すみません、というような素振りを見せ、また元の位置に戻る。

うっすら笑っているようにも見えた。

なんなんだ、一体。

鳥肌が立つというか、寒気が走るというか、つまり恐怖を感じた。

人間はわからないものが怖い。

自分の理解、理屈の外側にある存在が怖い。

その女性はすでに私の理解を超えていた。

動くに動けず、私は結局その女性と対峙したまま、最寄り駅まで乗ってしまった。

途中で降りるべきかとも考えたが、そこは怖さより私の意地が勝ってしまっていた。

何事もなかったかのように電車を降り、改札を抜けたところで後方をくまなく確認した。

万一、ついて降りて来られていたら、それはただの恐怖ではなく身の危険である。

幸い、そんなことはなかったが。

 

私は幽霊は見たことがないし、そもそも信じていないのだが、いたとしても、幽霊より生身の人間の方が怖いのではないかと思う。

死してなお残る残滓より、生きている人間の情念の方が何倍も強いだろう。

化けて出るより、隣に居られて触れられる方が怖い。

そう思う。