異呆人

毒にも薬にもならない呟き

群れない奢り

同僚とビアガーデンに行ってきた。

仲の良い同僚が、家庭の不満というか、ストレスを溜め込んでいたので、ガス抜きに部署の若手で連れ立って出かけた。

池袋の商業施設の屋上にあるチープなビアガーデンで、料理は大して美味しくはなかったし、風の強い日で気を遣って風下に座ったので、煙にまみれて大変だった。

まぁこういうものは雰囲気である。

細かいことに、とやかく言うのは野暮というもの。

何となく騒いだりなんだりして楽しめたらいいのだ。

少なくとも、思うに任せぬことが原因の鬱憤を晴らしてくれたらいい。

ストレスが溜まっていた当の彼女は楽しそうだったので良かった。

「ビアガーデンに行きたい」と言っていたのも彼女だったので、退屈そうにされても困るのだが。

 

昔の自分なら絶対にこんなことはしなかった。

それは他人に気を遣わなかったということではなく、大勢で飲みに行くようなことをしなかったということである。

高校や大学では、見ればわかるというくらい一匹狼だった。

休憩時間は教室の片隅で昼寝したり読書したりしていたし、飲み会の誘いもほぼすべて断っていた。

誰かと一緒にいて気を遣うのがめんどくさかったし、そもそも気の合う仲間を除けば一緒にいて楽しいわけでもなかった。

わあわあ言うのも五月蝿かったし、酒なら静かに飲めよと思っていた。

今でもその思いは変わらない。

やはり一人でいる方が楽である。

 

それでも頼まれて幹事のようなことをしたり、中心になって人を集めたり、社交めいたことをするようになったのは、逆にどうでもよくなったからである。

肩肘を張らなくなった。

「自分はこういう人間だぞ」という、わかりやすい主張や雰囲気でのアピールをしなくなった。

そういった我がなくなった分だけ、人に合わせるようになった。

静かな方が好きだが、無理に静けさを求めなくていい。

気を遣うのは面倒だが、無理に一人にならなくていい。

そういうことはいつでもできる。

今は自分に余裕がある。

その空いた時間なり能力なりを、気軽に人に分けられるようになった。

貸しているつもりはないので、返してもらう必要はない。

私にとって必要ないから、あげるのである。

 

ハタチ前後の頃は、群れないことが強さだと思っていた。

独力で立っていられない弱い人間が、群れなすものだと思っていた。

他人におもねないことや、周りに流されないことは、今でも大切だと思うのだが、それはただ独りでいることとは違うのである。

むしろ周りと協調しながらも、譲れないところだけ譲らないことが、大切なのだと今は思う。

独りでいること自体は簡単である。

独りでいられることは、人によっては難しいかもしれない。

独りでいられるけれども、人と一緒にいることはさらに難しい。

だって独りの方が楽だから。

あえてそんなことをする意味もないのだが、私と一緒にいたいという稀有な人間がそこそこいるので、自分に余裕があるうちはその期待に応えようと思っている。

 

少しだけ歳をとったせいかもしれない。

どちらかというと、しがらみを極力断ち切るようにして生きてきたつもりだが、どこへ行って何をしてても、次から次へとしがらみは湧き上がる。

どんどん増える中で思ったのは、無理に断ち切らなくていいのではないかということだった。

自分から不要なものを掴みに行く気はないが、自然に繋がっているならそのままにしておけばいい。

邪魔なものは自然にしていれば離れていく。

もしかしたらその中のどれかが、人生のどこかで大いに役立つかもしれない。

場所は取らない。

時間は許す限りでいい。

無駄に時間を使わされていると思うなら、その時点でそれは邪魔なしがらみである。

まぁ、じゃあその時間で代わりに何をするのかと言えば、大抵の人間はろくなことに使わないのだが。

 

世界にはいろんな種類の人間がいて、いろんなことを考えながら生きている。

何が正しいわけでも、何が間違っているわけでもない。

自分の考え方が他人より上等だと思うのは奢りである。

「私はこう思う。あなたはお好きにどうぞ」、で十分だろう。

どんな生き方も、無意味という点では等価である。