異呆人

毒にも薬にもならない呟き

神でも仏でもご自由にどうぞ

出張帰り、新幹線を降りて在来線に乗り換えていた。

ちょうど休日出勤の帰り道。

いつもなら空いている時間の空いている路線だが、行楽帰りらしき人がポツポツ乗っていて、座れるが混雑しているといった感じだった。

自分が少し疲れているのを感じた。

だからこそ、一際大きな声が余計に鬱陶しく感じた。

隣の席に座っている男が宗教を論じていた。

3人組らしいが、1人が一方的に喋り倒している。

耳に障る声量で、またその内容も不快だった。

イスラム教を罵倒し、「目には目を、とか言ってる怖い宗教ですよ!」とか言っていた。

「目には目を、歯には歯を」はハンムラビ法典であり、イスラム教は関係ない。

同様の記述は旧約聖書にあるらしいので、あえて言うならキリスト教になるのだろうか。

そしてその男は続けざまに、「キリスト教仏教はまだマシ。神道が一番良い。そこかしこに神が宿っていると思ったら、ありがたみがあるでしょ?」というようなことを言っていた。

なんかもうツッコミたいところはいっぱいあったのだが、とりあえずバカは休み休み言って欲しい。

若い大学生か何かかと思ってチラリと隣を見遣ると、40前後と思しきおっさんだった。

これでは神にも救われないかもしれない。

 

さて、神とは何だろうか。

神と一口に言っても、人の形をしたものもあればそうでないものもあり、形のないものもある。

役割の定義も宗教によって様々で、とても同列に並べられたものではない。

ここで私が言いたいのは、そう言った各宗教における神の役割とか定義ではなく、人間にとっての神の存在意義、役割である。

私は神とは未知に対する説明だと思っている。

わからないものに理屈をつけるためのワイルドカード

登場しただけで「神様だから」とピリオドを打ってくれる存在。

それが神だと思う。

仏教における仏にも、部分的に類似した機能がある。

 

わからないものは怖い。

だからわかるように言葉で形を与える。

与えられた形を畏れ、敬い、崇めることで、未知の恐怖から身を守る、あるいはそれを味方につけようとする。

それは目に見える形に限らない。

言葉で定義することは、存在を与えることである。

目に見えなくても、名前をつけて認識することで、それは形を得る。

人知を超えたものを、人知の枠に収めるために必要だったもの。

それが神なのではないだろうか。

 

宗教は現実を説明するという意味では、やっていることは科学と同じである。

根拠があるかないか、という程度の違い。

神はその中でもとても便利な存在で、「神様がこうしたから」、「神様がこう言ったから」で、ほぼすべてQEDになってしまう。

神道などに見られるアニミズムの神は、いわゆる一神教の神やギリシャ神話の神々とはまた違うが、未知や不可思議を説明するための機能だという点では同じである。

昔の人たちは、神というフィルターの向こうに現実を見てきた。

それは自分たちで都合の良いように作ったフィルターである。

だから神というのは、どうにも人間くさい。

そもそも神がいるのなら、人間を含め、世界など不要なはずである。

もし万物に神が宿るなら、人間にも神が宿っているはずである。

なのに世界はこんなに混沌としている。

人間はいつの世も煩悶している。

それは世界がそういう風にできているからである。

神や仏がいようがいまいが、世界は1mmも変わらない。

世界から争いはなくならないし、夕飯を何にするかで頭を悩ませる。

 

ただ神を信じることが悪いわけではない。

それでその人の中で世界の説明がつくのなら、それも一つの方法である。

別に神でも仏でも構わない。

それで心がすっきりする、煩悩から解放されるなら素晴らしいではないか。

まぁ私は信心に厚い人で、そんなすっきりした人を見たことがないが。

大体は上手くいかないことを「試練」だとか都合のいいように言い換えて誤魔化していたりする。

神はあくまで説明のためのツールであり、現実を変えてくれるわけではない。

信じても願っても、現実は変わらない。

実際に自力で変えられるかどうかは置いておいて、目の前の現実を変えたいと願うなら、自分でどうにかするしかないのである。

それでも神仏が必要なら「ご自由にどうぞ」だと思う。

お花畑の頭につける薬はない。