異呆人

毒にも薬にもならない呟き

世界に対する効力感

新聞を読んでいると、ナイトプールの話題が記事になっていた。

ホテルなどのプールを、夜などに一般開放するようである。

お値段はお手頃とは言えないが、高級ホテルのオシャレなプールでちょっとリッチな気分で遊べますよ、というのが売りらしい。

写真撮影スポットや小道具などもあるらしく、若い20代とおぼしき女性たちが、浮き輪に身を預けて遊んでいる写真が掲載されていた。

モデルだろうか、一般の人だろうか。

夏だなぁ、エロいなぁ、と思いながら記事を眺めていた。

ただのおっさんの感想である。

 

記事によると、彼女たちはその写真をインスタグラムなどに上げたりするらしい。

一般人が水着の写真をネットに上げるなんて、一昔前なら考えられなかったことだろう。

もちろん一昔前にはネット自体が存在しないし、そんな女性が世の多数派だとも思わない。

しかしそういう価値観が存在するということが、何だか時代が変わってるのだなと感じさせる。

水着写真をネットで晒すリスクとか、そんな説教臭いことを言うつもりはない。

見て欲しい、褒めて欲しい、認めて欲しい。

そんな自己顕示欲がこれでもかと露骨に発露されていることに戸惑いのようなものを感じる。

何が欲しいのか。

賞賛そのものか。

それとも寂しさなど、別の空いた穴を埋めるために必要なのか。

 

ネットの存在は、人と世界の関係を変えたなと思う。

遠く離れた人と一瞬で繋がれるとか、買い物に行かずに欲しいものが手に入るとか、そういうことも含めて、個人の世界、個人ができることが広がったなと思う。

特に人と繋がることが容易になったと思う。

人が集まれば社会になるのだから、社会の入り口というのは人と人が接するところにある。

その範囲が格段に拡大した。

例えば趣味のランニングの集まりを催したいと思ったら、周りのランニング好きに声をかけることになる。

だがそう都合よく周りにランニング好きがいるとは限らない。

そういったときに目的を同じくする人と簡単に繋がれるようになった。

いわゆる「アラブの春」に代表されるようなデモ行為も、SNSによって拡大される。

それが加速度的に手軽なものになり、多くの人が手軽にゆるく繋がれるようになった。

 

以前、何度かネットで声をかけられて、見知らぬ人たちの参加する飲み会などに参加したことがある。

まだmixiをやっていた頃で、そこでここと同じようなしょうもないことばかりダラダラ書いていたから、こいつは相当な変人で面白いかもしれないと思われたのかもしれない。

さておき、そういった飲み会などのアクティビティに参加すると、大抵は同じように「よくわからないけど声をかけられたから来てみました」という人たちだったりする。

特にタイプが似ているとか、特徴的だとか、そういう風には感じられなかった。

声をかけた人が、なぜ私を含むこれらの人たちをピックアップしたのかわからなかった。

聞いてみたら「なんとなく、面白そうだと思った」とか、「とりあえず、楽しければいいんじゃない?」みたいな答えが返ってくる。

ほとんどは二度と参加することはないのだが、彼らはどうも同じような集まりを何度も繰り返しているようだった。

 

きっと効力感が欲しいのだろうなと思う。

自分が声をかけて、人が集まって、なんだかわからないけど形になった。

世界が変わったような気がするかもしれない。

自分が何かを為したような気になるかもしれない。

暖簾に腕押しでなく、確かに自分がやったことの手応えが感じられる。

そういうものが欲しいのかもしれない。

人を集めるという行為は、本来的には難しいものなのである。

集まるからには目的があるわけで、目的を同じくする人を探す必要がある。

たくさん集めようとすればするほど、声をかける母数を増やす必要がある。

普段の生活圏で知り合う人に声をかけるのでは、自ずと限界がある。

よしんば目的を同じくする人を見つけられたとしても、その人の都合が合うかどうかわからない。

もしかしたら、相手は自分のことが嫌いかもしれない。

声をかけるとなれば基本的には知り合いだろうから、普段の自分が知られているわけである。

「〜が声をかける集まりなら行かないでおこうかな」とならないとも限らない。

ネットで素性がわからなければ、「とりあえず目的が合致するから参加してみるか」となるかもしれない。

 

インスタグラムで水着の写真を上げる行為も同じようなものかもしれない。

たくさんの人から「いいね!」が付くことで、自分が何かすごいことをしたような気になるかもしれないし、自分がすごい存在だと思えるかもしれない。

飲食店の巨大な冷蔵庫に入った写真を上げるバカ共も、つまるところはそうなのだろう。

誰かに見て欲しいという気持ちの向こう側には、ただ自分を認めて欲しいというだけでなく、確かに自分がやったことが世界に影響を与えていることを感じたいという気持ちがあるのかもしれない。

普段の生活で、そんな機会というのはなかなかない。

生活というのは、人生というのは、基本的にはもっと地味なものである。

自分がどれだけ頑張っても、周りの物事というのはほとんど変わらない、変えられない。

そういう閉塞感から抜け出したいという脱出願望のようなものかもしれない。

それは現実逃避とも言えるのだが。

 

本当は「生き甲斐」と言われるものが、それらの願望を代替するのだろう。

自分という存在が確かにこの世界に存在しているという実感を得られるもの、「生きている甲斐」である。

ただ効力感を得ることと生き甲斐との違いは、効力感というのが世界のリアクション、外から与えられるものなのに対して、生き甲斐が内から湧き上がる自分自身の感覚であることだろ。

もしかしたら10年後に同じように水着の写真をアップしても、世界は大したリアクションをとってくれないかもしれない。

そうすると、効力感は得られなくなる。

ももし、水着の写真をアップすることそのものが生き甲斐なら、ただそうしていれば同じような効力感を得られるはずである。

どちらが人生を充実させるかは言うまでもない。

 

なんか水着の写真を連呼したが、別に水着じゃなくてもいい。

なんなら全裸でもいい。

いや、さすがにそれは法に触れるか。