異呆人

毒にも薬にもならない呟き

気持ち悪い

エネルギーが内側に向かっているのを感じる。

内側に向かうのは良くない。

有り余ったエネルギーは心身を蝕む。

身を喰らうような感覚がある。

外に向けて発信しなければならない。

身体を動かす。

運動でなくてもいい。

料理でも、ゲームでも、読書でも何でもいい。

意識を逸らす。

外に向けて。

こうやって文章を書くこともその一つ。

エネルギーが内側に渦巻くときはそもそも書く気にならないのだが、書くことは大切なことである。

見えないものに形を与える。

考えや気持ちを見えるようにする。

形があれば整理できる。

整理して、まとめて、体系立てる。

そうすることで、自分が形を現す。

経験、知識、技能、それによって生まれる思考の総体。

だから書くことは自分のためなのである。

エネルギーを外に発散し、形にし、自分を再認識するために必要なのである。

その形を整えるために衆目に晒すのはいいことである。

ぐちゃぐちゃにならない。

大昔に日記を書いていたことがあったが、やはり見られないことを前提にすると、あとから読み返せたものでない。

そのとき何を思って自分がそれを書いたかも定かでなくなる。

本来、ただでさえ思考がカオスなのに、それでは手がつけられなくなる。

 

自分が普通でないことを突き付けられると、わかっていても気持ち悪くなる。

わかっている、理解している。

理解してもらえないことを理解している。

だから多くはさらっと流せるのだが、たまに何かがどこかに引っかかって気持ち悪くなる。

持病のようなものである。

放っておけば、いずれ感覚は消える。

何日か何週間か経てば、そんな感覚があったことすら忘れる。

日常に埋没しなければならない。

考えないことはできない。

だから身体を動かすのである。

エネルギーの発散と同時に、考える割合を相対的に減らす。

形を保つ。

どうでもよくなってはいけない。

投げない。

崩すのは簡単で、築くのには時間がかかるとか、そんな一般論ではない。

怖いもの知らずということは、失うことを恐れないということは、実に怖いことである。

つまり失うことが怖いのでなく、真に失うものがなくなった自分が怖い。

手綱は常に握っておく必要がある。

気を抜かないこと、油断しないこと。

 

物語は「めでたし、めでたし」で終わるものばかりではない。

人生もまた、「めでたし、めでたし」で終わるものばかりではない。

物語が所詮物語でしかないように、人生もまたただの人生でしかない。

本をパタンと閉じるように、人生も簡単に閉じられる。

きっと本みたいにきちんとした体裁のあるものではなく、チラシの裏の落書きや、藁半紙に印刷された学校のプリントくらいのものだろう、多くの人の生というのは。

くしゃっと丸めてゴミ箱に投げてお終いである。

実にくだらない。

そんなくだらないことに、チラシの裏の落書きに、時に頭を悩ませ、精神を削り、心身を磨耗させるのである。

一生やってろ、というか、実際に一生やる羽目になるのだから、たまったものではないと思う。

 

久々にリミッター外して書いてみたら、少し黒い文章になってしまった。

そういえば高校の部活の卒業冊子に、全卒業生に向けた個別メッセージを書いている人がいて、私には「ときどきダークサイドに堕ちているのを見かけます。フォースを信じろ!」と書いてあった。

心配されてもされなくても、きっとあの頃から今までずっと、私のライトセイバーは真紅である。