異呆人

毒にも薬にもならない呟き

価値なんて存在しない

世の中には「良いこと」と「悪いこと」があるわけではない。

ある事象を「良い」と判断する人間と、「悪い」と判断する人間がいるだけである。

普遍的で絶対的な価値が存在するわけではなく、個々の人間の価値観が存在するだけである。

だから方々から批判されるような思想の持ち主がいたとして、彼が悪者であるわけではない。

彼が「悪い」と思う人間がいるだけである。

そう思う人が多いと、社会的に「悪」とされるわけである。

社会というのは複数の人間の集まりだ。

だから聖人君子を生むのも悪者を生むのも、すべては多数決の論理、マジョリティの価値観だと言える。

 

別に誰かを賞賛したり、罵倒したりすることが悪いわけではない。

価値観を持つのも、それを表明するのも自由である。

ただ、それが個々の人間の間でときおり相違する。

だから価値観と価値観がぶつかり合う。

そしてそれは概ね、力によって解決される。

力といっても腕力だけではない。

例えば、今の安倍政権が気に入らないからと選挙で引きずり降ろすことができたなら、それは立派な「力」である。

意思の力や数の力もある。

いずれにせよ、強い者が勝つことには違いない。

弱肉強食は世界の論理である。

それは価値観ではない。

1+1が2になることと同じである。

 

私が嫌いな人間にも親はいるし、配偶者や子がいることもある。

私が嫌いな人間は、概ね他の人からも嫌われていることが多いが、だからといって万人から嫌われているとも限らない。

誰かにとっては良き夫や良き妻かもしれないし、孝行息子や娘かもしれないし、良き父母かもしれない。

だから「嫌い」というのはあくまで私の価値観においてであって、その人が悪者であるわけではない。

受け入れられないなら拒絶するし、認められないなら批判もする。

ただそこの線引きは意識的にするようにしている。

正義なんてどこまで行っても、エゴイスティックで、ともすれば独善的なものである。

それでも私は、自分が自分の価値観において正しい人間であることを望む。

その価値観がどれだけ人と違おうが、自分の価値観に沿って生きることが「自分らしく生きること」だからである。

「よく生きる」というのも、そういうことだと思う。

 

正義と正義がぶつかって、勝った方が正義になる。

それが世の常である。

私たちだって、知らない間に他者の価値観や社会の価値観に影響されて生きている。

それが恣意的に歪められていないものだなんて、誰が保証してくれるだろう。

だから考え続けなければならない。

耳に入るニュースが、他人の話が、真実なのかそうでないのか。

一面の事実として正しかったり、話し手の価値観が入っていることもある。

それを冷静に判断していくことが、その人自身を作り上げていく。

判断することで、価値観そのものが補強される。

自分がどういう嗜好があるのか、何を志向しているのか。

それはまた、回り回って次の判断をより自分らしいものにしてくれる。

 

決めつけることはよくない。

「これはこうだ」という思い込みは、自分の行動を縛るだけでなく、他者に害を及ぼしたり、他者にいいように利用されたりする。

思考停止することはよくない。

めんどくさくても考えないといけないことはある。

知らないふり、見ないふり、聞こえないふりをしていることが、最後に自分の首を締めることがある。

すべてを決めるのは自分自身の価値観である。

そして自分自身で世界のルールを決められる人間が、この世界には溢れているのである。

考え続けなければならない。

判断し、ぶつかり、妥協し、我を通し、そうやって揺れながら生きていかなければならないのが人生である。

足を止めたものから腐っていくな、と思う。