異呆人

毒にも薬にもならない呟き

今日という日を生きる

普段の生活の中で、世間一般というざっくりとした括り方をする場合の世間一般の多くの人には、危機意識というか覚悟がないなと思う。

それは生きる覚悟であり、その裏表としての死ぬ覚悟である。

人生というものを道のりに例えるなら、その路傍の其処彼処には暗くて深い穴がぽっかり空いている。

一歩道を踏み外せば、あるいは誰かにぶつかられたり、突風が吹いたり、小石に躓いたりしようものなら、丸ごと飲み込まれて帰ってこられないような穴が空いているのである。

普段、多くの人は、それに対して無自覚である。

というか、そんなもの、常から意識して生活していられない。

普段の生活には生活の雑事がたくさんあり、それがその人の意識に場所を占める。

だから「もしかしたら明日死ぬかも」という可能性を、一分一秒の隙間もなく考慮するというのは不可能な話である。

ただ、まったく意識しないのと、心の隅にでも置いておくのでは違う。

突如として死神がやってきて「明日死にますよ」と言われても、「まぁ一生懸命生きてきたし、いいか」と思えるようになっていることは、大事なことなのではないかと思う。

 

どうにもそれがない人というのは、毎日を漫然と生きているように見受けられる。

今日の延長線上に明日が来ることを疑っていないように感じられる。

だから芯がない。

その場その場で適当な判断をして、とりあえず切り抜けようとする。

それがその人のスタイルならいいのだが、そういう人に限って「明日死ぬ?ちょっとまって、まだやりたいこといっぱいあるから!」とか言いそうである。

もちろん、やりたいことをすべてやってから死ぬなんて、土台無理な話である。

つまり、諦めることも一つの覚悟。

できないことを受け入れることも一つの覚悟。

そうやって取捨選択して、人生は洗練されていく。

選ばないことを選ぶことも一つの選択肢ではあるが、選ばないこととボーッとしていてそもそも考えていなかったことは、やはり違う。

 

明日を考えない刹那的な生き方を推奨しているわけではない。

先のことを考えて準備しておくことは、とても大切なことである。

「明日死んでもいい」ことと「長生きしても困らないように準備しておく」ことは矛盾しない。

そういう先々の準備も含めて、「今できることを精一杯やってますか?」ということである。

あれがあるから、これがあるから、と自分に言い訳をするのは簡単だ。

できないなら、できないと認めることの方が難しいかもしれない。

今できないなら、いつやるのか。

それとも諦めてしまうのか。

そもそも判断自体が今できないのでペンディングにするのか。

そうやって精査していくなら、自ずと今やるべきことというのは見えてくるものである。

 

生きるということに真摯に向き合っていないと、いつかそんな路傍の穴に飲み込まれたときに後悔すると思う。

まぁ飲み込まれたときには後悔する暇もないことは、往々にしてあるのだが。

私はいつも「明日死んでもいい」と思えるよう、今日という日を今できる判断での最善を尽くして過ごしたいと思う。

適度に頑張って、適度に手を抜いて、エネルギーの配分を考えて、やりたいことはやれるだけやって、やれないことにはケリをつけて。

あるとき、もう目が覚めなくなっていた、くらいの人生がベストだと思う。