異呆人

毒にも薬にもならない呟き

写真と文章

フォトジェニックという単語がマイブームである。

私はこれを「写真映えする」という意味に受け取っている。

私は写真をあまり撮らない。

写真映えのする被写体に興味があるわけでもない。

ただ単に「フォトジェニック」という単語の響きが好きなだけである。

なんかカッコよくないだろか、「フォトジェニック」。

 

当ブログにおいても、写真を掲載することはほとんどない。

これは単に、このブログの記事が主に雑記だからである。

旅行ブログや食レポ系のブログであれば、常に対応した写真が存在するだろうが、雑記に対応する写真などはない。

関係ない写真を上げて、お茶を濁すことならできるかもしれないが。

あとは単にめんどくさいだけである。

「フォトジェニック」な何かに遭遇しても、私は大抵あとで「写真に撮っておけばよかった」と思うことになる。

写真に残すという習慣がないし、特にそうしたいとも思わない。

ブログやSNSのネタになるので便利だなと思う程度である。

だからよく、撮り忘れる。

もしくは撮ったことそのものを忘れていて、「そういえば、これ、ネタにするつもりだった」と後から気付くことになる。

 

最近はSNSでもブログでも、写真を掲載したものが多い。

美しくて見栄えがするし、状況がよくわかる。

どこに行ったのか、何を食べたのか、何を見て感動したのか、そういったものが視覚情報としてダイレクトに伝わってくる。

うっかり撮り忘れたりする、そういう発想がない人間としては羨ましい限りである。

かといって、カメラを持ち歩くこともしないので(そこそこのコンパクトカメラは持っている)、やはり今日も今日とて文章だけをつらつら書き並べることになる。

これは私のFacebookでも同じだ。

そして、視覚情報を文章で再構築しようとすると、それはとんでもなく冗長になるわりに、そのすべてを伝えきれない。

「だから読みにくいし、長いんだよ!」と自分で自分にツッコミたい。

 

しかしそういったSNSがデフォルトの若者世代は、もしかしたら視覚情報としてダイレクトに情報がもたらされるのが当たり前になっているかもしれない。

LINEだって、文章よりスタンプなのである。

あれは確かに見たら一発で言いたいことがわかるし、雰囲気まで伝わってくる。

優れものだと思う。

しかしその結果、若者の文章力、あるいは語彙力というのは落ちていやしないだろうか。

見たらわかってしまうが故に、それを言葉で表現する必要がなくなる。

例えばそのうち、青も藍も紺も言葉で区別する必要がなくなり、「ご覧の通りです」で済む時代が来てしまうかもしれない。

「青は藍より出でて藍より青し」とか、もはや意味不明の早口言葉になってしまうかもしれない。

 

そのうち、小説なんてジャンルはなくなってしまうかもしれない。

そもそも「書く」という行為すら大きく変質してしまった。

私もこの文章をPCでタイピングしている。

厳密に言えば、「書いて」いない。

スマホフリック入力することもある。

先日、社長と営業同行したときは、社長は検索に音声入力を使っていた。

読み上げたものが文章になるのがデオフォルトの時代は、そのうち来るのだろう。

それどころか、時代はもう脳波入力がスタンダードな時代を目指しているのだ。

ちなみに実際に脳波入力できるレベルにはすでに到達している。

www.nikkei.com

 

それでも書くという行為は、書きながら思考するという意味において、ちょうどいいスピードなのではないかという気はする。

音声だと主に「あっ、間違った」と思ったタイミングですでに入力は完了している。

脳波だとどうなるのだろう。

頭で考えている内容を片っ端から文章にされたら、もう膨大な量になり過ぎて伝えたいことがなんなのかもわからなくなりそうである。

書いていて、書きながら「なんか違う」と思うこともある。

「書いたものを目で見て認識して再度思考する」という流れと、それに要する速度を考えると、人間の脳の方がついていけなくなりそうだと思うのは私だけだろうか。

そんなに急がず、文章くらいは余計な横道思考を交えながら書いていきたいものだなと思うのは、「昭和生まれのおっさんの発想」とバッサリ切り捨てられてしまう日が来たらどうしよう。

いや、別にどうもしないが。