異呆人

毒にも薬にもならない呟き

謙虚さと自己主張

東京都議会議員選挙は、小池知事率いる都民ファーストの会の圧勝となった。

ここまで勝つとは思わなかったが、今の自民党の体たらくを見る限り、不思議なことではない。

私だって、東京都民だったら自民党に票は入れない。

小池さんも嫌いだから都民ファーストにも票は入れない。

じゃあどこに票を入れるかと言うと、入れたい政党がないので困ってしまう。

ある意味、安倍さんを支えていたのは、私のような「他の政党に比べたら自民党の方がマシ」と思っていた無党派層だろう。

だが今回は流れが違った。

「安倍帰れ」といったようなプラカードを掲げる奴らまで出てくる始末である。

都民ファーストの会がウケたというより、安倍さんが嫌われただけである。

裏を返せば、感情的に嫌われるくらい、事は深刻だということである。

今回ばかりは安倍さんはじめ、自民党の方々も結果を重く受け止めていることだろう。

 

さて、安倍さんの何が嫌われたのかと言うと、傲慢さではないかと思う。

「私は正しい。間違っているのはお前らだ」と言わんばかりの政権運営である。

法律的に問題があるかとか、道義的に間違っていないかとか、そんなことよりまずあの受け答えに腹が立つ。

たぶん、そう思われたのだと思う。

腑に落ちないことは多々あれ、そこまで嫌われるほどの政策の中身ではない。

謙虚さが足りないと思われたのだろう。

日本人は謙虚さが好きである。

私も謙虚さは好きだ。

「どうだすごいだろ!」とドヤ顔をされると、その人が実際にどんなにすごい人でも、ちょっと身構えてしまう。

「いやいや、私なんかまだまだですよ」と言われると、「そんなことないよ!」とこちらの方から言ってあげたくなる。

同じく日本人の気質を表す「判官贔屓」も、ここから来ているものと思われる。

まぁ謙遜する人が本当に謙虚とは限らないし、上述のやり取りは半ば「そんなことないよ!」と言ってもらうための前振りみたいなものでもあるが、そのポーズが大事というか、ポーズを取れる人を「余裕のある大物」みたいに判断するのである。

 

これに対して、「今のグローバル化の時代においては謙虚ではいけない!もっと自己主張していかないと欧米人に押し負ける!」というような意見がある。

これも一面として、もっともである。

自己主張も大事。

言いたいことを言わないと損をしたり、ストレスを溜めることになったりする。

和を重んじる日本では、謙虚さを見せて周りを味方につけることが一つの戦術だが、個人主義の社会においては自分の力で殴り合うことが必要である。

どちらにしても弱肉強食。

自分自身に能力があることが前提で、ただ謙虚であることは何も生まない。

せめて努力し続ける人であらねばならない。

謙虚さというのは、「これだけできるのに」という能力に対するものと、「これだけやっているのに」という努力、プロセスに対するものがあると思う。

結果はどうあれ、努力した事実もある程度は評価されるのが世の中である。

 

謙虚さと自己主張はトレードオフの関係にない。

謙虚でありながら、しっかり自己主張する人はいる。

自己主張が強ければ謙虚とは言えない気もするが、要は押すところと引くところのメリハリをつければいいのである。

前に出るときは前に出て、必要なければさっと引く。

謙虚であることの評価には、そういった空気を読む能力も含まれているのではないだろうか。

あと、評価される謙虚さというのは、どこかストイックさを孕んでいるものである。

我慢すべきところは我慢する。

「まだまだだ」と思うからには、足りない分を努力する。

そういった忍耐とも言える地道な努力を、日本人は好むのである。

 

そう考えると、今の自民党政権には自己主張ばかりで謙虚さがまるでないことがわかる。

「文句を言うなら対案を出せ」という野党への姿勢は至極真っ当ではあるが、謙虚さとは程遠い。

空気も読まない。

今回であれば、負けの兆候は選挙戦のわりと早い段階から出ていた。

選挙の応援演説中に「安倍帰れ」のプラカードを掲げた人たちに対して、安倍さんは「こんな人たちには負けない」と言い張ったそうである。

批判に粛として耳を傾けることをせず、「負けない」なんて言ってボロ負けなんだから世話がない。

せっかくお灸をすえられたのだから、ここは真摯に反省した方がいいだろう。

負けの本質から目を背けないこともまた、謙虚さの要素の一つではないかと思う。