異呆人

毒にも薬にもならない呟き

経済格差と教育格差

「経済格差が教育格差に結びつく」というような話を、しばしば目にする。

お金がないから塾などの教育に費やす費用が少なくなり、結果的に進学先のレベルが下がり、それが就職先のレベル、つまり収入の高低につながり、収入が低い親から生まれる子も同じ道を辿るので、経済格差が固定される、というような理屈である。

わからないでもない。

そしてこれが実際にその通りなら、幼児教育から大学までの高等教育が無償化されることによって教育の機会均等の問題は多少解決されても、それに付随して起こるようなこういった問題は解決されない。

私は経済的困窮により生じる教育機会の問題を解決することより、こういった根本的な経済格差の問題を解決することの方が重要なのではないかと思う。

例えば、「大学に行けるならどこでもいい」というなら無償化すれば問題は解決するが、「◯◯大学に行きたい」とか「この仕事をしたい」となれば、それ相応の高度な教育を受ける必要が出てきたりする。

本人の努力と能力だけで、それらの問題をクリアできるケースは稀である。

結局はお金がないと解決できないことが出てくる。

 

この経済格差と教育格差の問題は、実はとても深刻なのではないかと思う。

それは単にお金の問題だけではないと思うからである。

例えば、お金持ちの家庭とそうでない家庭では、家庭内の雰囲気やルールなども違うだろう。

食べるもの、遊びに行くところ、使っているシャンプーなども違うだろう。

進学する学校によって、周囲の友人のタイプも決まり、それにより醸成される人間関係や人との付き合い方も変わる。

そういった生活の隅々にまで、経済的なレベルの違いによる生活の質の違いが潜んでいる。

それはその人の意識、考え方、発想を規定する。

ハングリー精神でもって一発逆転を狙える人は、世の中においては少数である。

世界はそんな風に都合良くはできていない。

そもそも経済的に恵まれない環境で育てば、多くの人は一発逆転を狙うより、まずは明日生きていくための堅実な選択肢を探すだろう。

それが環境による意識の規定である。

余裕があるからこそ生まれる発想もある。

 

歴史的にはそういった格差が固定された状況の方がずっと長かったわけである。

それが戦後、焼け野原になって多くの人が0からのスタートを余儀なくされた。

戦後というのはもちろん大変な時代であったわけだが、見方によっては格差の少ない一発逆転の可能性に恵まれた時代だったかもしれない。

しかし時代が進むと、経済的な差のない状態から、徐々に差が取り戻せない状況に変わってくる。

そして取り戻せない差が、確たるものとして固定されてくる。

経済的格差が固定化される。

ある意味では、現代日本の経済的格差の問題というのは、起こるべくして起こる問題と言える。

 

富というのは力である。

力のないものが力のあるものに勝つ方法はない。

勝つには力をつけるしかない。

格差を解消するには、富を再分配する必要がある。

普通に考えれば、富を持っている側は抵抗する。

富のない側は、富以外の力、具体的には数で対抗する必要がある。

つまり民主主義に則って、多数決で高所得者から富を搾り取る仕組みを構築するのである。

本気で経済格差を解消しようとするなら、こんな方法しかなくなるのではないかと思う。

 

もちろん、これは圧倒的多数の低所得層と少数の富裕層という構図でなければ成立しない。

現実にはそんな風に綺麗に人々は二分化されていない。

どこまでの人が取られる側に回り、どこまでの人が取る側に回るのか。

その線引きの位置によって、人々は綱引きをすることになるのである。

お金の話となると、なんとも世の中辛いものだなという気がする。

結局、個人のレベルで経済格差をどうにかする方法はない。

お金がなくても満足して生きていけるように、考え方を変えるしかない。

それは間違いない方法であるし、それで十分でもあるのだが、やはり敗者の論理だなとも思うのである。

先立つ物があっての人生だということか。