異呆人

毒にも薬にもならない呟き

「なぜ生きる」と「どう生きる」

私は生きる意味なんてないと思っている。

syuten0416.hatenablog.com

私は何かのために生きているわけではないし、使命だとかそんなものはご都合主義の産物だと思っている。

生まれ落ちたら、死ぬまで生きるのが生物である。

人間は、理由とかあれこれ考える高尚な頭脳を持っている存在であると同時に、飯食って糞して寝るだけの存在でもあるのだ。

それにもし生きていることに理由があるというなら、生まれ得なかった命や、物心つく前に失われる命は、その命が自らの意味を問う暇すら与えられないという事実を、どういう風に解釈したらいいだろう。

人生とは、勝手にスタートして勝手に終了する、不条理で無情なものである。

しかしそんな不条理な人生でも、どう生きるかは選べると思う。

生きている以上、どんな人間として生きるかは選べる。

もちろん、「どう生きるか」という選択の余地すらない短い人生もあるわけだが、それは単に「短いから選ぶ間もありませんでした」で終いの話である。

 

私は生きるということにおいて、「why」より「how」が大事なのではないかと思う。

「なぜ生きるか」、「何のために生きるか」ということは、とても観念的で何とでも言いようがある。

しかし「どう生きるか」ということは、今の自分がそれを実践している姿であるはずなので、言い訳のしようがない。

「あなたはあなたの望む通りの人間として生きられていますか?」という問いに対する答えが、今の自分の姿、あるいはその延長線上の将来の姿でなければならない。

人生とはままならないものである。

上手くいかないことの方が多い。

だから「お金持ちになりたい」とか「この職業に就きたい」とか「モテたい」とか、不可能なことはいくらでもあるが、「自分はこんな人間として生きていきたい」、「こんな人間性を身に付けたい」ということは、ある程度努力でどうにかなることだと思う。

気持ちの強さ次第だと言ってもいい。

つまりここで言う「どう生きるか」というのは人の物質的、社会的な状態ではなく、内面や人間性を指す。

 

そして「どう生きるか」ということは、「どう死ぬか」ということでもある。

限られた時間の中、いつかはわからない終わりに向けて、どんな人間であり続けるか。

そしてどんな人間として死ぬか。

それをきっちりと問い詰めて、理想の自分自身であり続けることが、死ぬ瞬間に満足していられるかどうかにつながると思う。

物質的なものも、精神的なものも、死んだら何も無くなる。

だから生きてきた結果、その人生がその人にとって良かったのかどうかは、終わってからではなく、終わる瞬間のその人の気持ちに集約されるはずである。

「良かった」かどうかすら意味のないことなので、どうでもいいことではあるのだが。

ちなみに私は、「弁慶の仁王立ち」みたいな最期を迎えられたら素敵だなと思っている。

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私自身は楽しい人生でなくてもいいし、幸せな人生でなくてもいいと思っている。

もちろん楽しくないよりは楽しい方がいいし、不幸よりは幸福な方がいいのだが、楽しくなるために生きているわけでも、幸せになるために生きているわけでもない。

本気で「楽しみ」や「幸福」のために生きるということは、例えば自分のために他人の「楽しみ」や「幸福」を踏み躙る危うさを秘めている。

もし「いやいやそこまでしませんよ。そこは節度を持って〜」と考える人がいるなら、その人はその時点で「楽しみ」や「幸福」以外の価値尺度を孕んだ「どんな人間でとして生きたいか」という理想像を持っているはずである。

私の人生はさほど楽しいものでもないし、幸せなものでもないかもしれないし、むしろそんなものどうでもいいと思って生きているのだが、それはそれ以外の価値を私が私の人生に望んでいるからである。

それがどんなものかというのは一口に言うのは難しいのだが、つまりは今の私がそのままの答えで、私は私の信じる理想に沿って生きていられているなと思うのだ。

だからきっと私は、明日死んでも後悔しないだろうし、明後日死んでも後悔しないだろうし、「あと60年生きろ」と言われたら、嫌々ながら生きると思う。

それが私にとっての生きるということである。