異呆人

毒にも薬にもならない呟き

思い出は心の中に

私はあまりものを残さない。

本は読んだらすぐ売るし、使わなくなったものはすぐ捨てる。

もらった年賀状や手紙なども、よほどのことがない限り捨ててしまう。

もちろん捨てられないプレゼントの類もあるが、基本的に非感情的な人間なので、ものに想いを込めて感傷に浸ることは少ない。

それは、それが良いとか悪いとかではなく、私がそういう人間だというだけである。

わりと頻繁に引越ししていたので、ものが多いと邪魔だったという事情もある。

 

だから写真もあまり撮らない。

写真こそ、後で見返すためにのみ存在しているものである。

私が写真を撮るのは、SNSに上げたり、妻や友人に見せたりして、情報を視覚的に共有するためである。

よって自分の写真というのがほとんどない。

写真が嫌いだとか苦手だとかいう以前の問題で、自分の写真の必要性を感じない。

結婚式のプロフィールムービーを作るときは苦労した。

家族や友人に頼んでかき集めた。

すると意外なほどたくさん出てきて、皆、よく持っているものだなと感心したりした。

ちなみに妻は写真に関わる仕事をしているので、どちらかと言えば写真を撮りたがる。

別に嫌ではないので応じているが、写り方だとかなんだとか言い出すので、少し面倒だなと思うことはある。

 

本は読んだら再び読むことはほとんどないし、写真は撮っても撮りっぱなしで見返すことがない。

あまりそういったことに執著がない。

形に残さなければ忘れてしまうと言う人もいるが、私は形に残さないと忘れてしまうようなことは忘れてもいいことだろうと思っている。

たとえ情景を鮮明に思い出せなかったとしても、大切なことは忘れない。

忘れるときがきたら、それは私にとって大切でなくなったときだと思っている。

それに過去を過剰に思い出させるものがあると、「あの頃は良かった」と過去の美化された部分だけにフォーカスして、過去に引っ張られそうである。

私はやはり、今自分がどんな人間として生きているかということにフォーカスしていたい。

 

ただし妻からのラブレターやプレゼントだけはすべて保管している。

もちろん大切なものではあるのだが、ことさら忘れたくないくらい大切だからというわけではない。

一緒に暮らすとなったとき、それらがないことが大火事の火種になるかもしれないという、極めて打算的な判断である。

もものも感情も何もかも、いずれは形を変えていき、最終的には形を失う。

その一時点ごとの記録が大切だと思う人もいれば、そんなものには意味がないという人もいるだろう。

繰り返すが、それは良いとか悪いとかではなく、価値観の違いでしかない。

だからもし、私が妻からの手紙をなくすことがあっても、結婚記念日を忘れていたりしても、そういう人間だと思って諦めてもらいたいものである。