異呆人

毒にも薬にもならない呟き

回収されない伏線

先日、仕事で見知らぬ番号から電話がかかってきた。

見知らぬ番号でも、会社携帯なら出ることにしている。

出てみると、2年くらい前に飛込みで営業をかけて、名刺とパンフレットを渡していた会社だった。

当時は取引を始めることにあまり乗り気でなかったのだが、数年経っていろいろと状況が変わり、取引を始めたいということだった。

こちらとしては、もちろん歓迎である。

電話で取引開始までの流れを説明して、その他諸々の段取りなどを進めた。

ただそこは三重の会社だったのだが、私は今は三重を担当していない。

流れだけ作って、あとは今三重を担当している後輩に投げた。

後輩は「そんなこともあるんですね」と言っていた。

もちろん、そんなこともある。

長く仕事をしていればわかる。

だから新規先を訪問したときは、最低限名刺だけでも残すようにするのである。

目先のことばかりにとらわれず、長い目で見て仕事をするように話すことはよくあるのだが、実際にこういうことでもない限り、腑に落ちないものかもしれない。

 

仕事でも、プライベートでも、私はよく伏線を張る。

「布石を置く」と言ってもいい。

その行為単体ではあまり意味のないことでも、特定の状況になれば効力を発揮すること、いつかどこかで役に立つかもしれないことをする。

用意周到な自分の行動の癖と言ってもいいかもしれない。

たいていの場合、実際にその伏線が回収されるまで、私がその伏線を張っていたことには気付かれない。

あるいはそれが回収される状況が訪れず、誰にも知られないままに闇に消えていくものもある。

私の人生の履歴には、そんな回収されない伏線がたくさん張られている。

無事に効力を発揮するものよりは、無駄に終わるものの方が圧倒的に多いだろう。

それでもそうやって備えをしておくことは、決して無駄ではないと思っている。

 

サッカーで言えば、空いているスペースに走り込むことと同じである。

パスが来るかどうかはわからない。

しかし、パスが来てから走り出したのでは遅い。

ならばパスが来る可能性に賭けて、空いたスペースに全力疾走するのである。

実際にパスが来なければ、ランに費やした体力は無駄かもしれない。

それでも走っておくことで、絶対的なチャンスを作り出せるかもしれないならやる価値はある。

あるいはスペースに走る行為が相手ディフェンスを引きつけたりして、回り回って味方の攻撃にプラスの効果をもたらすかもしれない。

そんな効果が出るかは、やってみなければわからない。

だがその可能性のために行動することが大事なのである。

 

こぼれ球が足元に転がってくるのはラッキーである。

しかし別の面から見れば、きちんとこぼれ球が転がってくる位置にポジショニングしていたとも言える。

そこにはきっと、最終的に回収されないかもしれない伏線が張られているのである。

最終的にもたらされるパフォーマンスとコストのバランスを考える必要はあるが、こういう伏線は張るに越したことはないというのが、私の生き方のスタンスである。

努力は必ずしも報われるとは限らないが、努力せずに果実だけ享受できるのは、一部の特権階級だけである。

私のような一般人かつ凡人は、できる限り努力した方がいい。

まぁこれでも、全然努力の足りない手抜き人生を生きている人間だと思うが。

 

そういうものは、見えようが見えまいがどちらでも構わないのである。

その伏線の効力を、伏線を張っていたという事実を、回収されなかったたくさんの意図を、誰かに見せる必要はない。

時が来たときに、張っていた意図に狙い通りかかったとき、「あぁ、やっておいて良かった」と、独りごちればいい。

自分の周りの世界が滑らかに回転するために、そうやって手を尽くしておくことは、他人のためになることもあるが何より自分のためである。

「やってます」感が出ない方が、物事がスムーズに進むことも多い。

こうやって一歩引くことができるようになったのは、大人になったということなのだろうか、と思う。